第98話「読めない流れ」
生徒になってから、塔へは堂々と通えるようになった。
昼の実習が終わったあと、札を見せて、浅い層へ一人で下りる。誰も咎めない。下働きのころ、夜明け前にこそこそ忍び込んでいたのが嘘のようだ。
だが、できることはむしろ減った。
剣は振れる。体も動かせる。火も風も詠唱をつけてなら出せる。火と風を重ねるくらいなら、いっそ見せてしまってもいいのかもしれない。竜が街を襲ったとき、僕はその火で人を守った。腕のいい二属性だと噂が一つ増えるだけだ。だが、いちばん鍛えたいものはそうはいかない。詠唱もつけず、手のなかで流れを直に組むあの稽古だ。無詠唱で火を出すところを見られれば、我流の二属性という作り話がたちまち綻ぶ。まして火でも風でもない別の色を指に灯したところなど、一度でも見られれば――そこで終わる。
結局、僕は剣ばかり振っていた。振りながら、掌の底で流れの端をこっそり撫でる。それが精一杯だ。物置の暗がりのほうが、まだ自由だった。
一度、誰もいないのを確かめて、掌のなかへ詠唱なしの火を細く灯してみた。まっすぐな、僕の火だ。だが灯した先から、通路の物音にすぐ消した。心の臓が跳ねた。たったこれだけのことに、こんなに肝を冷やす。表に出るというのは、こういうことだ。明るい札を一枚もらう代わりに、暗がりをまるごと取り上げられる。
その日、三つ目の広間で剣を収めたとき、通路の奥に白い息の気配がした。
振り返ると、あの生徒が立っていた。
仕立てのいい、飾りのない外套。腰に細い剣。氷のように静かな目。前に二層で会った。魔法をひとつも使わずに剣で魔物を斬る僕を順に見て、それから指一本で魔物を氷の像に変えた、あの生徒だ。
名は、知らない。あのときも名乗らなかった。ただ、学舎のいちばん上のほう、噂に聞く"五指"の一人かもしれないと思っただけだ。確かめようはなかった。
僕は、身構えるより先に癖で、その生徒の"流れ"を読もうとしていた。魔力がどこをどう通っているか。だがいつもと同じだった。読めない。火や風なら辛うじて拾える糸口が、この氷には、影も掴めない。読める僕が、読めない。それが、また胸の奥をざらりと撫でた。
「……見覚えがある」低い声だった。感情の乗らない、確かめるだけの声。「あのときの、下働きだ。剣の」
「今は、下働きじゃありません」
「知っている」その目が、僕の生徒の外套を上から下までなぞった。「編入したそうだな。火と、風の二属性の読み手。噂は聞いた」
噂は速い。この生徒の耳にまでもう届いている。
あの生徒は少し首をかしげた。研究者が標本の辻褄の合わない一点を見つけたときのような顔だ。
「妙だな」
うなじが冷えた。
「前に会ったとき、お前の魔力は空に近かった。深い層に、魔力も残さず下りて剣だけで魔物を斬っていた」その目が僕を捉える。「魔法が使えるのに、なぜわざわざ空にして戦う。二属性の魔法使いが」
的を射ていた。冷たい目の奥に鋭いものが光っている。あの娘は心で僕の嘘を見抜く。この生徒は頭で、見抜こうとする。
だが、この問いには嘘をつく必要がなかった。
「魔力が尽きたとき、何もできずに突っ立っているのがいちばん怖いので」できるだけ平らに言った。「空になっても剣で戦えるように体を慣らしています。魔力に頼りきる癖をつけたくない」
半分は本当だった。空にする理由のほうは言えないが。
あの生徒はしばらく僕を見ていた。それから、ふ、と興味を収めた。
「……なるほど。魔力を切り札に残すのではなく、魔力がなくても戦える体を作るか」わずかに目の色が動いた。「悪くない。ここの連中は、魔力が切れた瞬間にただの的になる」
通路の奥から、羽音がした。深い層から迷い上がった大ぶりの蝙蝠が数匹こちらへ流れてくる。
あの生徒は、振り向きもしなかった。ただ片手を軽く上げた。
詠唱は、なかった。
空気がひと息で白く凍る。蝙蝠は、羽ばたいたその形のまま宙で氷の粒になって、床へぱらぱらと落ちた。
速い。無駄がない。指一本、声もなく。前に見たときと同じだ。いや――前より静かになっている。この生徒も、伸びている。
僕は剣の柄を握りしめた。あれが、僕の目指す先だ。考えるより先に思っただけで流れが形になる域。今の僕は、詠唱の面をかぶって、わざと下手な火を出している。あの高さまでは、途方もなく遠い。遠いどころか、今は、後ろへ下がってすらいる。
悔しさは、あった。だが、それだけではなかった。
あの氷を、いつか読めるだろうかと、また思う。前に会ったときも同じことを思った。あの無駄のなさ、あの速さ。式の下にあるはずの"どう流すか"を、僕の目で拾って、僕の手で組み直せたら。今は、火の面すら、まともに脱げずにいる。だが、目指す先が、また、目の前に立った。追いつくのは途方もない。それでも、遠くに立つ形が見えているのは、悪いことではなかった。
あの生徒は、氷の粒を踏んで、僕の横を通り過ぎた。
去り際、ふと足を止める。
「この塔、近ごろ下の層がざわついている」独り言のような声だった。「深いところの魔物が、浅いほうへ上がってきている。教官は気の迷いだと言うが」ちらと、僕を見た。「お前も、感じるか」
指の先の、あの冷たさがよみがえった。
「……少し」
「そうか」あの生徒は、それ以上言わなかった。「なら、気をつけることだ。魔力は空にするな。次は剣一本では足りないかもしれん」
それだけ言って、白い外套が、通路の奥へ消えていった。
僕は、しばらく、氷の粒の残る床を見ていた。
あの生徒も、下の層のざわめきに気づいている。教官が退けた気配を、二人だけが拾っている。僕は灰の村を生き延びた体で。あの生徒は、たぶん、あの研ぎ澄まされた頭で。
嫌な符合だった。
冒険者のころ、この手のざわめきを軽く見た街を、僕は知っている。大丈夫だ、気の迷いだと誰もが言って――そして、ある日、下から獣が溢れた。理屈で来るものではない。来るときは、いつも前触れを踏み潰して、いっぺんに来る。
塔を出て、生徒の部屋へ戻る道すがら、僕は、あの娘の顔をなぜか思い出していた。次の実習は、より下の層だ。あの娘も、あの組の二人も下りる。もし、あのざわめきが本物なら。
守れば、隙ができる。隙は、誰かを殺す。灰の村で、骨に刻んだ掟だ。その掟は、今も正しいと思っている。だが正しさだけでは、あの朝、誰も救えなかった。
だが、今度は隣に、背中を埋めてくれる者がいる。それが心強いのか、恐ろしいのか。僕には、まだ決められなかった。ただ、剣を握る手に、いつもより少しだけ力がこもった。
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