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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
学園編

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第100話「溢れる」

 一つ下の層は、朝から静かすぎた。

 四人で下りた。前を盾の男子が固め、後ろにそばかすの治し手。あの娘が中ほどで火の詠唱の調子を確かめ、僕は殿で剣を提げている。いつもの並びだ。教官は塔の上の広間で待ち、規定どおり課題の石まで往復して戻ればいい、それだけの実習のはずだった。

 だが、下りた瞬間から指の先が痛いほど冷たかった。

 浅い層なら、蝙蝠や小鬼の羽音がそこかしこでするものだ。それがない。魔物の気配がまるきり消えている。獣が一匹残らずどこかへ引いてしまったような静けさ。

 この静けさを、僕は知っている。氾濫の前、獣が下へ吸い寄せられて地上がいっとき凪ぐ、あの静けさだ。

 塔の実習で、こんな凪に出くわしたことは一度もない。浅い層は、いつだって耳障りなほど生き物の音がしている。それが根こそぎ消えていた。生き物が全部、下へ落ちていったあとの貝殻のなかのような静けさだった。

 「……変ね」あの娘も足を止めた。「小鬼の一匹もいない。こんなの、初めて」

 「引き返そう」僕は言った。「今日は、やめたほうがいい」

 「でも、課題の石はすぐそこだよ」盾の男子が、地図の写しを指した。「印だけ確かめて、すぐ戻る。教官に、途中で逃げ帰ったと言われるのは――」

 その言葉の途中で、床が鳴った。


 遠い地鳴りではない。足の裏のすぐ下だった。

 通路の奥の暗がりから、生ぬるい風が吹き上がってきた。獣の匂いと、土の湿りと、それから嗅いだ覚えのある焦げくさいような気配。地の底が、ひとつ大きく息を吸う。

 次の瞬間、暗がりが動いた。

 闇そのものが、こちらへ押し寄せてくる。数えられない。蝙蝠、小鬼、鱗の蜥蜴、名も知らない大ぶりの獣まで、下の層から追い立てられた獣が種を問わず、ひと塊になって溢れ出してきた。逃げているのだ。もっと深い、もっと恐ろしい何かから、我先にと。

 「後ろへ!」

 僕が叫ぶのと、先頭の波が盾に当たるのが同じだった。

 盾の男子が踏ん張った。一度は受けた。だが二匹、三匹と乗られてじりじりと足が滑る。数が違う。あの浅い層の、三匹湧いた実習とは桁が違う。

 僕は殿から前へ飛び、盾を乗り越えかけた小鬼の首を薙いだ。ボルツの型だ。一匹、二匹。斬っても、湧いてくる数のほうが多い。剣の届く先の獣を落とすそばから、届かない先で次の列が這い上がってくる。腕が追いつかない。

 あの娘の火が迷いなく走った。澄んだ詠唱、まっすぐな炎。先頭の一列を灼き払う。だが灼いた先から、後ろの獣が死骸を踏み越えてまた詰めてくる。焼いても焼いても、減った気がしない。

 「きりが、ないわよ!」

 あの娘の声に、初めて焦りが混じった。


 僕は剣を振りながら、必死に頭を回した。

 この隘路を背にして、正面だけに絞れば――峠道で狼の群れを凌いだ、あの手だ。だが、あのときは僕一人だった。今は守る背中が三つある。盾の男子は前でもう手一杯。治し手の子は、後ろで震えて短い棒きれを握りしめているだけだ。あの子には、戦う手立てがない。

 僕が前へ出れば、あの子の前が空く。

 僕が後ろを固めれば、盾の男子の横が崩れる。

 どちらも、守りきれない。手が二本足りない。

 灰の村の朝が、後ろから追いついてきた。あのときも、こうだった。守る手が足りなくて、僕は選べなくて、そして全部を落とした。

 あのとき、僕はまだ十かそこらの子供で、剣も知らなかった。今は違う。剣がある。火がある。体も動く。それなのに、手が足りないという一事だけはあの朝と寸分変わらない。強くなったはずなのに、守れる数は少しも増えていなかった。

 「治し手を、こっちへ!」僕は叫んだ。あの娘の火の陰、いちばん獣の薄い一角へ治し手の子を押しやる。「そこから動くな! 頭を低く!」

 そのぶん、僕は剣を握り直して盾の男子の崩れた横へ回った。火を口の詠唱で被せて放つ。獣の鼻先で炎が爆ぜ、二匹がひるむ。カバーの火だ。絞りも複合も封じた、鈍い火。だが今は、それしか出せない。ここには、あの娘も正規の生徒たちの目もある。

 ほんとうなら、火と風を重ねてこの隘路ごと炎の壁で塞いでしまえる。針の先まで絞った火を、群れの真ん中で爆ぜさせられる。そのどれもが、今の僕には出せない。出せば、明るいところで積み上げてきた"二属性の読み手"の顔が、いっぺんに剥がれ落ちる。この窮地でさえ、僕は面を外せなかった。

 物足りない。片手を縛られたまま、殴り合っている心地だった。


 それでも、四人で辛うじて壁際まで下がった。

 だが、無傷では済まなかった。盾の男子の腕から血が伝っている。治し手の子が、震える手でその傷へ光を当てた。細い、頼りない回復の光だ。この子は、傷は診られる。だが、群れは止められない。守られる側の子だった。守る手は、やはり二本足りないままだ。

 背に岩を負い、三方に絞る。盾の男子が正面、僕がその右、あの娘の火が左を灼く。治し手の子を壁と体で囲う。ほんの少し、息がつけた。

 息が、つけたと思った。

 通路のいちばん奥の暗がりで、ひときわ大きな影が身を起こした。

 ゆっくりと。周りの獣が、その影を避けて左右へ割れる。獣たちが逃げていた「もっと恐ろしい何か」が、今いちばん後ろからゆらりと姿を現した。

 背丈は、盾の男子の倍。鱗とも毛ともつかないものに覆われた、太い四肢。落ち窪んだ眼窩の奥で、濁った眼がぬめりと光っている。深い層の、ずっと奥にいるはずの個体だ。こんな浅いところまで、ひとりでに上がってくるものではない。

 その眼が、ゆっくりと僕たちを舐めるように見回した。獲物を選ぶ目でも、追われて逃げる獣の目でもない。据わった、天敵のいない者の目だった。

 「……なに、あれ」あの娘の火が、初めて揺れた。

 僕は答えられなかった。喉がからからだった。

 あれは、この塔にいていいものではない。誰かが、下から、わざわざ引き上げてきたものだ。指の冷たさが、そう告げていた。

 その誰かが誰なのか、見当がつかないでもなかった。裏門で笑った、あの上着の男の顔がちらとよぎる。私たちは下で何かが動いているのを掴んでいる、と男は言った。ちゃんと数えている、とも。――数えていた、というより、待っていたのではないか。そんな疑いが、ぞろりと背を這った。

 大きな影が、地を蹴った。

 その巨体からは思えない速さだった。影は宙を裂いて、まっすぐ後ろの治し手の子めがけて落ちてくる。

 間に合わない。僕の剣も、あの娘の火も、遠すぎた。

 あの子の細い悲鳴が上がった。

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