第101話「割って入る」
白い光が、横から走った。
巨体が治し手の子に届く寸前、その脇腹に氷の楔が突き刺さっていた。宙で体勢が崩れる。落ちる先が、ほんの半歩ずれる。子供の頭のすぐ横で、太い前肢が床を割った。石の破片が跳ねる。
通路の反対の口に、あの生徒が立っていた。
白い外套。細い剣。片手を、こちらへ差し伸べたまま。
「――氷の」僕は思わず声を漏らした。
「言ったはずだ」あの生徒は、こちらへ歩いてきながら言った。感情の乗らない、いつもの声。 「魔力は空にするな、と。次は剣一本では足りない、と」
危ういという読みは当たっていた。
ただ、僕が剣ばかり振っていたのは、魔力が尽きたからじゃない。振れる手を自分で縛っているからだ。それを、この生徒は知らない。
「なぜ、ここに」
「下がざわついていた。教官は気の迷いだと言った」あの生徒の目が巨体を捉える。「私は、数えていたほうを信じる」
言うなり、あの生徒は片手を薙いだ。詠唱は、ない。溢れ出す群れの一列が、走った先から白い像に変わって、通路に凍りついた獣の壁ができる。数瞬、波が堰き止められた。その静けさが、かえって背筋を冷やす。この生徒は、これを息もつかずにやってのける。
巨体が身をよじって、脇腹の氷を砕いた。傷は浅い。だが、確かに効いている。
三人になった。それでも、楽になった気はしなかった。
あの娘の火が右を灼き、僕が剣で正面の雑魚をさばき、氷の生徒が要所を凍らせて足を止める。役割が、勝手に噛み合っていく。だが巨体は、そのどれもをかいくぐってじわじわと間合いを詰めてくる。賢い。狙いを、いちばん脆いところへ絞ってくる。
一度、巨体の前肢が僕の剣を弾いた。腕が痺れる。まともに受ければ、こちらの骨が折れる。半歩ずれて体を横へ流した。ボルツの型だ。牙が空を切る。その隙に、氷の生徒が後ろ肢を凍らせ、あの娘の火が横っ面を灼く。三人がかりで、ようやく一つの傷をつけられる。それだけの相手だった。
巨体は、痛打を受けるたびに学んだ。同じ手は、二度と食わない。氷が足を狙うと見るや跳んでかわし、火が来ると読めば身をよじって鱗の厚いところで受ける。まともな獣ではない。誰かの手が、こいつをこう仕立てた。そう思うと、寒気がした。
治し手の子と、傷を負った盾の男子。守るべき二人は、あいかわらず僕たちの後ろにいる。
「あれの狙いは、後ろの二人だ」氷の生徒が短く言った。「弱いほうから食う。獣の道理だ」
分かっている。だから、手が足りない。
僕と氷の生徒が前へ出れば出るほど、後ろが薄くなる。あの娘の火は、群れと巨体の両方を相手にしてもう息が上がっている。
じり、じり、と後ろへ押される。壁を背にした三方の陣が、少しずつ削られていく。治し手の子の、押し殺した泣き声が背中で聞こえた。あと何度、この突進を受け止められるか。数えられるほどしか残っていない気がした。
巨体が、不意に地を蹴った。
狙いは、僕でも氷でもなかった。左だ。あの娘の火が尽きかけて、一瞬途切れた、その隙。
あの娘は、群れを灼くのに気を取られて気づいていない。
体が、勝手に動いた。
「セラ!」
声が、喉から飛び出していた。
あの娘が、はっと横を向く。僕が突き飛ばすのと、巨体の牙がその肩をかすめるのが同じだった。二人して床を転がる。牙は、あの娘のいた場所の石を深く抉っていた。
息が上がっていた。腕のなかに、赤い髪の頭がある。火の匂いと、汗の匂いがした。生きている。間に合った。あの娘が、僕を見上げていた。目を大きく見開いて。
僕が今、何と言ったか。あの娘は、それを聞いた。
「……いま」
「後だ」僕は、あの娘を引き起こした。名前のことは、頭の隅へ押しやる。今は、そんな場合ではない。「立てるか」
あの娘は、何か言いかけて呑み込んだ。頷く。火が、また灯る。さっきより強い。
盾の男子が、痛む腕でそれでも短い剣を構え直した。治し手の子が、洟をすすって背筋を伸ばす。誰も逃げ出さなかった。
巨体が向き直る。据わった眼が、今度はまっすぐ僕を見た。
邪魔をした者は、こいつだと言わんばかりに。
僕は、剣を構え直した。掌の底が、熱い。いつもの、面をかぶせた鈍い火ではない。もっと奥の、絞った火が出たがっている。
見られる。氷にも、あの娘にも。
だが、後ろの二人をこれ以上、危ない目には遭わせられない。守る手が二本足りないなら、その二本を、僕は今から少しだけ危ない側へ振り替える。
「氷の。少しの間、後ろを頼めるか」
あの生徒は、僕の掌を、ちらと見た。それから、何も訊かずに、後ろへ回った。
「面白い。……見せてもらおう」
氷の生徒が後ろへ回ると、通路の温度がすっと下がった。背後で、獣が次々に凍りつく音がする。これで、後ろはしばらくもつ。
僕は、息を吸った。
口では、いつもの意味のない詠唱を転がす。だが手のなかでは、いつもより深く流れを組む。火を、絞る。細く、鋭く。そこへ、風を一筋だけ、そっと重ねた。
偽りの詠唱の、その裏で。内側で。誰にも、境目は見えないように。
巨体の、濁った眼のその一点へ。放った。
口の詠唱とは裏腹の、細く白い火が、風に乗って一直線に伸びる。狙い違わず、濁った眼の芯を貫いた。
巨体が、初めて声を上げた。地の底から突き上げるような、太い咆哮。片眼を抱えて、のたうつ。据わっていた動きが、崩れた。
「今だ」氷の生徒の声。すかさず、凍った床が巨体の足をすくう。あの娘の火が、その脇腹の傷口へまっすぐ吸い込まれた。
巨体が、たまらず後ろへ退いた。暗い通路の口まで、ずるずると。据わった余裕は、もうその体になかった。
放った反動で、掌の底がすっと軽くなった。魔力が、また一段底へ近づく。あと何発、あの火を絞れるか。二発。よくて、三発。数えて、頭の隅にしまった。
だが、倒れはしない。退いただけだ。傷ついた獣は、いっとき退いて、また来る。冒険者のころ、嫌というほど見た。
束の間の静けさが、落ちた。
誰も、勝ったとは言わなかった。息を切らして、めいめいが退いた暗がりを睨んでいる。
あの娘が、僕の袖を、そっと引いた。
「……さっき」小さな声だった。「呼んだでしょ。わたしの、名前」
僕は、答えなかった。
「一回だけ、聞き間違いってことにしといてあげる」あの娘は、前を向いたまま言った。声が、少し揺れていた。「次は、ちゃんと呼びなさいよ。……こういうときに、じゃなくて」
喉の奥が、詰まった。
通路の奥で、退いたはずの巨体が、また身じろぎする気配がした。まだ、終わっていない。
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