第102話「気の迷い」
退いたはずの巨体が、暗がりでまた身を起こした。
片眼を潰されて、なお退かない。据わった目がこちらの数を数えている。次に前へ出れば、後ろの二人のどちらかはたぶん助からない。
僕は、掌の底をさぐった。
絞りの火は、あと二つ、三つ。だが、あの分厚い鱗にまともにぶつけても通らない。ならば、目をくらますのに使うだけだ。撃てば、僕は空になる。空になっても剣は残る。
それでいい、と思った。ここまでまだ誰も落としていない。あと一歩を落とすわけにはいかない。
「氷の。合図で、正面を頼む」僕は剣を握り直した。「あいつが動いた瞬間、足を止めてくれ。……一瞬でいい」
「無茶を言う」
「得意なんだ、無茶は」
あの生徒が、ふ、と息を吐いた。笑ったのかもしれない。
巨体が、地を蹴った。
その足に、氷が絡む。ほんの一瞬動きが縺れた。
僕は、残った火を巨体の顔面へ叩きつけた。二発、三発。鱗は抜けない。だが、目の前で爆ぜる炎に、あれがわずかにひるむ。その一瞬で、掌の底はすっかり空になった。
空になっても、剣は振れる。今まで、空になった後も振ってきた。だから、知っている。魔力が尽きたその先にも、まだ振れる剣が一本残っていることを。
潰れていないほうの眼。そこへ切っ先を突き入れた。
手応えは、鈍かった。だが、深く入った。
巨体が絶叫した。両の眼を失って闇のなかで方角を見失う。太い四肢がめくらめっぽうに宙を薙ぐ。その一撃が僕の肩をかすめ、体が壁まで飛ばされた。息が止まる。
背中をしたたかに打った。立て、と体に命じる。だが、腕に力が入らない。魔力は、もう一滴も残っていない。鍛えた体にも、限りはある。いちばん動きたいこの一瞬に、僕は動けなかった。
「今よ!」
あの娘の火が盲いた巨体の顔面で爆ぜた。氷がその足をまとめて凍らせる。
巨体は、もうこちらを追えなかった。方角を失った獣は、本能で来た穴へ戻ろうとする。ずるずると暗い底へ後退していく。
「穴を、塞ぐ」あの生徒が両手を上げた。
通路の奥の口が、天井から根までびっしりと氷で封じられていく。獣たちの逃げ込んだ穴が白く固まって塞がった。
あの生徒は、封じた穴をしばらく見つめていた。
「これで、二、三日はもつ」低く言う。「その間に、誰かがなぜこんなものが上がってきたのかを調べねばならん」
なぜ、と言ったとき、その目がほんの少し僕を見た。お前は何か知っているな、とでも問うように。僕は視線を逸らした。あの生徒は、それ以上は踏み込んでこなかった。
完全ではない。氷はいつか融ける。あれもいつか掘り返してくる。
だが、今日は、ここまで持ちこたえた。
地上へ戻る階段は、長かった。
盾の男子に肩を貸し、あの娘が治し手の子の手を引く。凪いでいた浅い層に、少しずつ生き物の気配が戻ってきていた。逃げていた獣が、恐ろしいものが引っ込んだのを察してまた散らばりはじめている。
背中の盾の男子が、時々呻いた。傷は治し手が塞いだが、血を流しすぎている。一段、また一段。終わらないかと思う階段を、ただ上へ。
誰も口をきかなかった。勝ったという顔をしていなかった。
塔の入り口の光が見えたとき、治し手の子がこらえきれずに泣き出した。あの娘が、その背を黙って撫でた。
氷の生徒は、地上に出ると報告の輪には加わらなかった。いつの間にか、白い外套の背が人混みの向こうへ消えている。礼を言いそびれた。あの生徒は、たぶん礼を待つ質でもない。
塔の上の広間で、教官が待っていた。
僕たちの傷と、煤と、擦り切れた顔を見てその表情が変わった。
「……何が、あった」
僕は見たままを話した。下の層が空になっていたこと。底から獣が溢れたこと。深いところにいるはずの個体が、浅い層まで上がってきていたこと。氷で穴を塞いで辛うじて退いたこと。
教官の顔から血の気が引いていった。
三日前、僕がこの人に同じことを言ったとき、返ってきたのは「季節でざわつく、もとからだ」だった。その言葉を、今僕は繰り返さなかった。言えば、この人を責めることになる。責めたところで、下の巨体は消えない。
「……気の迷いだと、思っていた」教官が、低い声で言った。ほとんど独り言だった。
僕は、何も言わなかった。
その沈黙が、たぶんどんな言葉よりこたえたはずだ。
教官は、弾かれたように立ち上がって上の階へ駆けていった。ほどなく、鐘が鳴った。実習を止める、非常の鐘だ。三日前には、鳴らなかった鐘だった。
塔は、その日のうちに閉じられた。
研究院と、塔を預かる教官たちが慌ただしく動きはじめた。下の層の異変を調べる。氷の封じがもつうちに、原因を突き止める。生徒の実習は、当分見合わせる。――ようやく、誰もが僕の指の冷たさと同じものを真剣に数えはじめた。
遅い、とは思わなかった。動きはじめただけ、ましだ。
人混みのなかにモスの姿があった。写しを抱えたまま、青い顔で塔を見上げている。目が合うと、何か言いたげに口を開いて、けれど結局、何も言わずに僕から目を逸らした。妙な触れ回りはするな、と言ったこの人も、今同じ寒さを味わっているのだろう。
ただ、僕はいちばん寒いことを誰にも言わなかった。
あの巨体は、ひとりでに上がってきたのではない。誰かが、下から引き上げた。裏門で笑った男の顔が、まだ頭を離れない。だが、証拠はない。口にすれば、なぜお前にそれが分かる、と問われる。答えれば、僕の面が剥がれる。
だから、呑んだ。呑んで、覚えておくことにした。これは、まだ序章だ。
盾の男子が去り際、僕とあの娘の前で足を止めた。何か言おうとして、うまく言葉にできず、ただぶっきらぼうに頭を下げる。治し手の子が、その隣で涙の跡のついた顔で、小さく「ありがとう」と言った。
守れた。今日は、一人も落とさなかった。灰の村のあの朝から、僕がずっとできずにいたことだった。
塔の外で、あの娘が僕の隣に並んだ。
しばらく、二人とも黙って閉ざされた塔を見上げていた。
「セラ」
言ってみた。今度は、窮地でも反射でもなく。
あの娘が、こちらを向いた。何か言い返すかと思ったが、ただ少しだけ目を細めた。
「……やっと、まともに呼んだわね」
それだけ言って、また、塔のほうへ目を戻す。
僕は、隠していることがまた一つ増えたのを感じていた。組織のことも、あの巨体のことも、僕の火のことも。だが、隣にまともに名を呼べる相手が一人いる。増えた隠しごとの重さと、その一人の軽さは、まだうまく釣り合わない。
それでも、悪くはなかった。
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