第103話「くすぶる」
塔は縄で閉ざされたままだった。
入り口の柱に太い麻縄が渡してある。研究院の札が下がっていて、立ち入りを禁ずるとだけ書いてある。番の男が二人退屈そうに槍を立てて立っていた。
僕は少し離れた木陰から、それを眺めていた。
毎朝、夜明け前にここへ来て、人目のない浅い層で原初式を全開で振る。それが、この数十日の暮らしの背骨だった。掌の底で流れを組み、絞りの火を伸ばし、追い風で体を押す。誰にも見られず、面もかぶらず、ただ僕の火だけを確かめる時間。その一刻だけは、誰でもない、ただの僕でいられた。掌のなかの火だけが本当だった。
それが、消えた。
掌が、うずいた。剣を振りたい。流れを組んで、空になるまで使い切ってまた満ちるのを待ちたい。だが、行き場がない。学舎の部屋は壁が薄い。中庭には目がある。街の外へ出れば半日仕事だ。
当分は、この体をくすぶらせておくしかなかった。
一度、人気のない裏庭の隅で指先に小さな火を灯そうとした。灯す前に、洗濯物を抱えた下働きが角を曲がってきて僕は慌てて手を握り込んだ。それだけのことに、心の臓が跳ねる。生徒の目、番の目、下働きの目。この学舎は、どこもかしこも、誰かの目でできていた。暗がりは、もうどこにもない。
学舎のなかでも、風向きが変わっていた。
下の層で何かがあったらしい。四人の生徒が、化け物と鉢合わせて辛うじて生きて戻った。話はいつもの脚で走っていた。尾ひれもついた。竜のような獣だったとか、片目の悪魔だったとか。
そのなかに、僕がいた。
廊下を歩くと視線が刺さる。あの編入生だ、下働き上がりの。あの塔の底で、化け物とやり合ったやつ。畏れと、値踏みと、それからなぜあんな下働きがそんな場所に、という当惑。
目立ってしまった。また。竜のときと同じだ。守るために動けば動くほど、僕の顔は覚えられていく。いちばん覚えられたくない僕がいちばん人目に出てしまう。
教官のひとりが廊下で僕を呼び止めた。下の層で見たものを、もう一度詳しく聞かせろと言う。研究院が正式に調べを始めたらしい。読み手として書庫に呼ばれる用が、また一つ増えた。厄介ごとは、いつもまとめてやってくる。
中庭を横切るとき、正規生の一団が声をひそめて僕を指した。あの下働き上がりが、どうやって五指の一人と肩を並べて戻ってきたのか。半月前まで、彼らは僕を風景の一部としても見ていなかった。今は、見る。目立つとはこういうことだった。
井戸端で、あの娘が待っていた。
「遅い」柄杓を差し出してくる。「毎朝、あの塔を見に行ってるでしょ。番の人が言ってたわよ。木陰にぼうっと立ってる編入生がいるって」
見られていたらしい。僕は、水を受け取った。
「……鍛える場所が、なくなっただけだ」
「ふうん」あの娘は、それ以上は訊かなかった。訊けばはぐらかされると知っている。
名を呼んでから、この娘との間の何かが少しだけ変わった。前より、口数が減った。前より、隣にいる時間が長くなった。用がなくても、そこにいる。それがこの娘のやり方らしかった。
この日も、僕が水を飲み終えるまで、あの娘は何を言うでもなく井戸の縁で足を揺らしていた。時々、僕の腕の掠り傷や、目の下の隈を盗み見るように確かめて。無事かどうかを、口では訊かずに目で数えている。その手が、ふと止まった。僕の外套の袖の、ほつれた糸を黙って指で撫でる。それから、また手を引っ込めた。
「ねえ」あの娘が井戸の縁に腰かけた。「あの下で、あんた、なんか隠してたでしょ」
水が、喉の途中で止まった。
「ダリオ、あー、あんたのことだから名前とか覚えてないか。盾のあの子が言ってた。あんたの火、途中で色が変わったって。詠唱もないのに、火が出た一瞬があったって。……本人は、見間違いだと思ってるらしいけど」
僕は、答えなかった。
あの娘は、僕の顔をじっと見ていた。責める目ではない。ただ、知りたい、という目だ。冒険者の街で、火と風の両方を見て、二本の指を片づけられずにいたあのときの目。
「言いたくないなら、いい」あの娘はふいに目を逸らした。「でも、いつか話したくなったら。……わたしなら、笑わないから」
その言葉が、思っていたより深く刺さった。
笑わない、と言われて、僕は初めて話してしまいたいと思った。この火が何なのか。僕が何者なのか。灰の村のことも、母のことも、全部。ずっと独りで抱えてきた石を、この娘の前に下ろしてしまいたい。
だが、口は開かなかった。まだ、早い。話せば、この娘まで危ないところへ引きずり込む。組織の男の顔が頭の隅で笑っていた。
その日の夕方、研究院の帰りに僕はその男とすれ違った。
人混みのなかで、仕立てのいい上着が僕の横で足を止めた。
「無事だったか」男は、前を向いたまま言った。「あんな下で、あんな大物と会って五体満足とはな。運がいい。……いや、運だけではないのだろうな」
背筋が冷えた。この男は知っている。あの巨体が、どこから来たのかを。それを、こうして僕の耳元で確かめている。
「あんたが」言いかけて、僕は呑んだ。証拠はない。喉まで出かかった言葉が、行き場をなくして腹の底へ沈んでいった。
「何か言いたそうだな」男は薄く笑った。
「だが、想像だけで人を罪人にはできん。まして、下働き上がりの編入生の言葉ではな」
その通りだった。僕には、何もない。名も、後ろ盾も、証拠も。
悔しさが、腹の底で焦げた。正しいことを知っているのに、それを口にする資格が僕にはない。この男は、それを見越して堂々と僕の前に立っている。
「だから、囲いの内へ来いと言っている」男は、人混みへ紛れかけて最後にこう言った。「よく考えることだ。……次に下から出てくるものが、あの程度で済むとは限らんぞ」
上着の背が、夕闇に消えた。
脅しだった。はっきりとした。あの塔の下には、まだ何かがいる。そして、それを出し入れできる手がこの街のどこかにある。
あの男たちは、下にいるものが上がってくる時期を知っている。あるいは、その流れに手をかけている。どこまで動かせるのかは分からない。だが、水の出る場所を知っていながら、蛇口から手を離している者ではなかった。
閉ざされた塔のほうを僕は振り返った。縄の向こうの暗がりに、まだ何が眠っているのか誰も知らない。知っていて黙っている者だけが、この街を静かに動かしている。
掌が、またうずいた。今度は、鍛えたいからではなかった。
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