第104話「隠れ場所」
塔が閉じてから、僕の掌はずっとくすぶっていた。
振る場所がない。組む場所がない。空にする場所がない。流れを組む速さも、絞りの精度も、振らない日が続くほど指先から錆びていく気がした。焦りだけが日ごとに溜まっていった。
夜、部屋で火を出さずに流れだけを組んでみた。
それが、途中でほどけた。
技が鈍ったのか、気持ちばかりが先走ったのか、自分でも分からなかった。分からないことが、いちばん怖かった。
その焦りを、あの娘に見抜かれていたらしい。
昼の講義のあと、セラが僕の袖を引いた。
「顔。ひどいわよ」
「……そうか」
「来て」それだけ言って、先に立って歩き出す。理由も、行き先も言わない。いつものことだ。僕は、少し迷ってついていった。
連れていかれたのは、学舎のいちばん奥、古い離れの裏だった。
使われなくなった調練場らしかった。石畳は罅割れ、雑草が膝まで伸びている。三方を高い塀に囲まれて、残る一方は蔦の絡んだ古い壁。人の通う道からは完全に外れている。物音も、視線も、ここまでは届きにくい。空気がこもっていた。人の手が入らなくなって久しい場所の、埃と、草いきれの匂い。踏み込むと、乾いた雑草が足の裏で鳴った。
「昔、剣術の科がここを使ってたんだって」セラは、塀の内側を見回した。「今は、誰も来ない。わたしがたまたま見つけただけ。家がうるさいとき、逃げ込む場所」
僕は、その空間を思わず端から端まで目で測っていた。
広さは十分だ。塀が高く、石畳の中央には草もほとんど生えていない。端の枯れ草だけ払えば、火を出しても燃え広がる心配はなさそうだった。
久しぶりに、掌の底が静かになった。
「……いい場所だ」
「でしょ」セラは、少しだけ得意そうにした。
それから、あの娘は塀を背に腰を下ろした。
「好きに、やれば」膝を抱えてそう言う。「わたしのことは、気にしないで。……見ないでおいてもいいけど」
僕は、動けなかった。
目の前に振れる場所がある。誰の目もない。あるのは、あの娘の目だけだ。そして、その目こそがいちばん厄介だった。この娘は、僕の本当の火を知っている。冒険者の街で、詠唱もないまっすぐな火を見ている。ここで僕が、いつもの下手な二属性を演じても、それが嘘だとこの娘にはわかってしまう。
演じるか。それとも。
「ねえ」セラが、膝に顎を乗せたままこちらを見ずに言った。「わたしの前で、下手な火を出すの、もうやめない?」
心の臓が、ひとつ跳ねた。
「疲れるでしょ。ずっと自分に嘘ついて。……見ててこっちも、疲れる」
その声に、責める色はなかった。呆れも、憐れみも。ただ、事実を置くように言っただけだった。だからこそ、僕の奥で固く結んでいた何かが、ひとつゆるんだ。
僕は、しばらく立ち尽くしていた。
ずっと独りで抱えてきた。誰かに見せれば、その誰かを危ないところへ引きずり込む。 灰の村で、僕はそれを骨の髄まで学んだ。守る者がいれば、そこが弱みになる。目の前で誰も守れなかった。だから、独りで。誰にも見せず、誰も背負わず。
だが、正直に言えば、疲れていた。
毎日、面をかぶる。まっすぐ伸びる火を途中で折る。風と火を、決して混ぜない。いちばん磨いた芸を、いちばん見せたい場所で殺す。その繰り返しに、僕は思っていたよりすり減っていた。独りでいることは、強さのはずだった。なのにこの頃は、ただ寒いだけだった。
だが、この娘は、もう半分見てしまっている。
そして、笑わない、と言った。
話せば、この娘を危ないところへ引きずり込むかもしれない。組織のことも、下の化け物のことも、まだ何ひとつ片づいていない。それでも、と思った。この娘は、もう片足を踏み入れている。あの下の層で、僕の隣で同じ化け物と戦った。今さら遠ざけて守れるほど、事は単純ではなかった。
ごく薄い風を塀の外へ這わせた。近くに人の気配がないことを確かめてから、僕は右手を前に出した。
口は、開かなかった。詠唱はしなかった。ただ、掌の底で流れを組む。いつも暗がりで、ひとりでやっていたように。まっすぐに、細く、絞って。
指先に、火が灯った。
青みを帯びた、鋭い火。誰かの受け売りの呪文も、二属性の作り話も、貼りついていない僕の火だ。
火は、驚くほど素直に立った。誰にも遠慮せず、誰にも化けず。僕が本当はこうありたいと思う、その形のように。
セラは、立ち上がっていた。
その火をじっと見ていた。冒険者の街で見たときと同じ目で。だが、あのときとは少し違った。あのときは、二本の指を片づけられずにいる当惑の目だった。今は、違う。
「……やっぱり」セラは、小さく言った。「詠唱、ないじゃない」
あの娘が、一歩火に近づいた。手をかざすでもなく、ただ、その青い光を顔の半分に浴びて。怖がっては、いなかった。気味悪がっても、いなかった。むしろ、見入っていた。きれいなものを見るときの、静かな目で。
僕は、火を消さなかった。消したくなかった。初めてだった。誰かに見られながら、面をかぶらずに僕の火を出したのは。
「これは」僕は、掌の火を見つめたまま口を開いた。「……火だけじゃ、ない」
言ってしまった。もう、戻れない。
セラは、何も言わなかった。ただ、待っていた。僕が、次の言葉を続けるのを。
塀の内側に、風がひとつ抜けた。塀際に残った膝丈の草が、いっせいに同じ方へ倒れた。
その風は、僕が起こした。詠唱もなく、手も動かさずに。
セラの目が、火から、倒れた草へ、それから僕の顔へと動いた。何かを確かめるように。
「火と、風」あの娘が囁いた。「両方。詠唱なしで。……あんた、いったい」
僕は、答える代わりに、掌を開いた。火を消して、そこへ別のものを呼ぶ。
指の先に、水の玉がひとつ。うまく丸められず、いびつに揺れてぽたりと草へ落ちた。次に、青白い火花がぱちりと弾けて、すぐに消えた。雷の真似ごとだ。最後に、指先が白く曇ってうっすらと霜が張った。どれも火のようにはいかない。つたなくて、危なっかしい。暗がりで、こっそりとしか試せなかったものだ。
だが、出た。火でも風でもない色が、僕の指から確かに。
セラは、口を半分開けたまま動かなかった。
二属性、という言葉は、もうどこにも当てはまらなかった。僕の声が、少し掠れた。「全部。……聞いてくれるか」
あの娘は、すぐには答えなかった。それから、さっきの塀ぎわにまた静かに腰を下ろした。膝を抱えて僕を見上げる。聞く姿勢だった。
誰かに話すなんて、村を焼かれてから一度も考えたことがなかった。話す相手も、話していい理由もどこにもなかった。今、その両方が、目の前で膝を抱えて待っている。
僕は息を吸った。どこから話せばいいのか。灰の村の朝からか。母の首飾りからか。それとも、あの遺跡の底で、初めて流れに触れたあの日からか。
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