第105話「順番」
結局、僕は遺跡の話から始めた。
村ではなく、母でもなく、あの石の底から。いちばん話しやすいところから手をつけた。今にして思えば、それがもう間違いだった。
「五年前だ。潜った先の壁に、字みたいなものが彫ってあった」
セラは膝を抱えたまま、僕を見上げていた。
「読めた」
「読めた?」
「習ってない。誰にも。……ただ、見てたら、どこがどこに繋がってるのか分かった」
言ってから、自分でも馬鹿らしくなった。説明になっていない。あの日のことを言葉にしようとすると、いつも指の間からこぼれていく。石が冷たかったこと。腹の底が鳴ったこと。そういうことばかり浮かんで、肝心の順序が出てこない。
セラは黙っていた。眉のあたりが少し険しい。理解できない話を、無理に手元へ引き寄せようとしている顔だった。
「流れが、見える」僕は言い直した。「魔法を使う人の中で、魔力がどう動いてるか。集めて、色をつけて、形にして、外へ出す。その四つだ」
その言い方は、通じた。
セラの目が、はっきりと動いた。
「……それ、一年の最初にやるやつ」
「そうなのか」
「そうよ。四工程。教本の最初の頁」セラは膝から顔を上げた。「ちょっと待って。あんた、それ、誰に教わったの」
「教わってない」
「じゃあ、どこで」
どこで、と言われて、僕は詰まった。ひとつの場所じゃない。
「……小さい頃から、変だと思ってた」
「は?」
「みんな炎を見てる。でも、炎になる前に何かある。ずっとそう思ってた。笑われたけど」
セラは何も言わなかった。
「谷で、火を熾したことがある。湿った木で、火打ち石じゃどうにもならなくて。散る熱を、逃さないように集めた。……あれで、魔法もたぶん同じことをしてるんだと思った。思っただけだ。確かめてない」
「確かめてない」
「遠くからは見た。迷宮で、魔法使いが火を出すところを、岩陰から。でも遠すぎた。何かが引き絞られる。それしか分からなかった」
言いながら、僕はセラを見た。言うなら、ここだ。
「四つ全部が見えたのは、お前の火が最初だ」
セラの膝が、わずかに動いた。
「……わたし?」
「橋の下だ。狼のとき。真横で見た。集めて、塗って、形にして、放つ。あれで、ぜんぶ繋がった」
あの娘は、口を開けたまま動かなかった。それから両手で自分の頬を一度こすって、塀に背を預け、天を仰いだ。長い息が出た。
「わたし、六年やってるのよ。あの四つを体に入れるだけで、三年かかった」
その声に、怒りは感じられなかった。あの娘はしばらくそのまま黙って、それから、ぽつりと言った。
「じゃあ、あんたがやってるのは、その手前?」
僕は口を開けたまま、少し止まった。
手前。
僕が何日も言葉にできずにいたものを、この娘は一息で言い当てた。
「たぶん、そうだ」
「たぶんって」
「たぶんだ。確かめたわけじゃない」
セラは何か言いかけて、やめた。
僕は続けた。遺跡の字は他の場所にもあった。魔剣の根元。付与の刻印。どれも同じ形が混じっている。誰が決めたわけでもないのに、職人はみんなその形を彫る。
「今の魔法は、何かを捨てたあとの形らしい」
「らしい?」
「一度だけ、そう言った奴がいた」
「誰」
僕は答えなかった。あの男の顔も、松の陰へ消えた背中も、この娘に渡すものではない気がした。
セラは、それ以上は聞かなかった。
「なんで隠すの」
その問いが来ることは分かっていた。それでも、すぐには答えられなかった。
「見せたら、終わるからだ」
「終わる?」
「一度でも見せたら、二属性の話は終わる。誰かが必ず、どこで覚えたと聞く。……あの上着の男は、たぶん、いちばん先に来る」
セラの表情が、そこで固くなった。あの男のことは、この娘も知っている。学舎の門のところで、僕を探して回っていた。
「だから、下手な火を出してた」
「そうだ」
「わたしの前でも」
「……そうだ」
あの娘は、それについては何も言わなかった。責める材料には、しなかった。
しばらくして、セラが言った。
「学園に言えばいいじゃない」
僕は顔を上げた。
「先生たちに。研究院のほうでも、誰でもいい。あんたが読めるって言えば、囲ってくれるでしょ。そのほうが、あの男だって手を出せない」
本気で言っていた。この娘の中では、それはたぶん筋の通った話なのだ。守ってくれる大人がいて、頼めば守ってくれる。そういう育ち方をしてきたんだろう、と思った。
僕は、うまく返せなかった。囲われるということが何なのか、言葉にして渡す方法が思いつかなかった。読めるとひとこと言えば、僕はもう僕の足で歩けなくなる。それを説明しようとすると、灰の村の話に戻らなければならない。
「……そうかもしれない」
僕は、そう言って逃げた。
セラは僕の顔を見て、それから、何かを言いかけてやめた。納得はしていない顔だった。
「どこで覚えたの」セラが言った。「そんなの、暗がりでこそこそやるしかないでしょ。ずっと独りで、どこで」
僕は答えようとした。
声が出なかった。
草が鳴った。日はもうほとんど落ちて、塀の内側は青く沈んでいる。セラの顔の輪郭だけが、うっすら白く残っていた。
「村が、焼けた」
自分の声が、遠くで聞こえた。
「五年前だ。……もう誰もいない。だから、独りだった。それだけだ」
そこから先は、口に出なかった。
セラは、追いかけてこなかった。
しばらくして、あの娘は言った。
「あんた、順番がめちゃくちゃ」
「順番」
「遺跡の話から始めたでしょ。ふつう、村からじゃない?」
僕は言葉に詰まった。指摘が正しすぎた。
僕は手を出して、もう一度火を組もうとした。話しながらのほうが、まだ楽だと思った。
組めなかった。
流れが途中でほどけて、指先で散った。ここ最近ずっとそうだ。理由は分からない。
「疲れてる」セラが言った。断定だった。
「……そうかもしれない」
セラは、僕の散った指先をしばらく見ていた。
「ねえ」
「なんだ」
「わたしにも、できる?」
声が、少し硬かった。冗談で言っているのではないのは、聞けば分かった。この娘は六年やっている。三年かけて四工程を体へ入れた。その手前に何かがあると聞かされて、平気でいられるわけがない。
僕は答えられなかった。
誰かに教えたことがない。教え方も知らない。あの底で僕がしたことは、教わることとは違う気がした。だが、できないと言い切る根拠もどこにもなかった。
「分からない」
「分からない、ばっかりね」
セラは短く笑った。怒っているようには聞こえなかった。ただ、その笑いは途中で消えた。
「今日は、もういい」セラは立ち上がって、膝についた草を払った。「全部聞くって言ったけど、一日で聞くとは言ってない」
僕は、少し笑った。たぶん、何日ぶりかだった。
「ひとつだけ」セラが振り向いた。「あんたのそれ、なんて呼ぶの」
名前は、ある。
僕がつけたものじゃない。峠道で会った男が、こともなげに置いていった名だ。あれから何度も口の中で転がして、誰にも渡さずにきた。
「……原初式」
「げんしょしき」
セラが、確かめるように繰り返した。
自分以外の声でその言葉を聞くのは、初めてだった。妙な感じがした。悪くはなかった。
「変な名前」
「僕がつけたんじゃない」
「ふうん」
あの娘は、それ以上は何も聞かなかった。聞けば、また僕が黙るとでも思ったのかもしれない。
草をかき分ける音が、遠ざかっていく。
僕はその場に残って、暗くなった掌を見ていた。
母の首飾りのことは、言わなかった。兄のことも、僕の名前のことも言わなかった。
それでも、明日もここへ来ると言われた気がした。
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