第106話「教え方」
朝のうちに来た。
セラより先に着いておきたかった。なぜかは、うまく言えない。昨日の続きを、誰かに見られながら始めるのが、少しこわかった。それだけかもしれない。
塀の内側の草は、まだ湿っている。靴の先が黒くなった。塔が閉まってから、流れをいじれる場所はここしか残っていない。学舎の裏の、使われない離れの、そのまた裏。日の差さない側だ。
しゃがんで、指先で流れを組んだ。
火は出さない。出すよりずっと手前の、水を引く溝みたいなものだけを、細く三本。四本目を寄せて、束ねる。ここまでは、来る。
束ねた先で、ほどけた。
指の間で、糸が散った。昨日と同じだ。理由は、分からない。
誰もいないのに、だ。
もう一度組んだ。今度は四本目に触れる前に散った。掌を膝にこすりつけて、汗を拭く。焦るほど遠くなるのは、体で覚えている。焦らないでいるのが、いちばん難しい。
背中で草が鳴った。
「早いのね」
振り向かなくても分かった。手を止めた。止めたというより、止まった。組みかけの流れが、また指先で散っていくのが分かった。
さっきまでは途中まで来ていた。今は、その途中にも届かない。
見られると、遠くなる。
そういうものらしい、と思った。理由は、やっぱり分からない。
セラは僕の隣に、少し間をあけて座った。膝を抱えて、僕の手を見ている。
「できないの?」
「昨日から、ずっとこうだ」
「疲れてるって言ったでしょ」
「かもしれない」
本当は、疲れとは少し違う気がしていた。けれど、それを説明する言葉を持っていなかったので、黙っておいた。
セラは何も言わずに、僕の散った指先を見ていた。前は、こういう時にすぐ茶化してきた。今日は、少し違う。
しばらく、二人とも黙っていた。草の匂いがした。どこか遠くで鐘が二つ鳴って、やんだ。学舎のほうから、朝の稽古の掛け声が、風に乗って切れ切れに届く。ここまでは、誰も来ない。
「ねえ」セラが言った。「昨日の、あれ」
「あれ」
「わたしにも、できるかって話」
指を止めた。
「教え方を知らない」
「知ってることを教えればいいでしょ」
簡単そうに言う。簡単ならよかった。
僕がやったのは、教わったことじゃない。灰と煤の底で、勝手に見つけたものだ。誰かに渡す形になっていない。渡し方を、そもそも習っていない。
でも、できないと言い切る理由も、どこにもなかった。
「……やってみるか」
自分でも、意外な声が出た。
「お前、火をつけるとき、四つ手順を踏むだろう」
「四工程。ふつうはね」
「三つ目まで来たら、止めろ」
セラは眉を寄せた。「止めたら、火はつかないけど」
「つかなくていい。四つ目を置く前に、その下に何があるか、触ってみろ」
「下」
「札を貼る前の、素のところだ」
セラは僕をしばらく見て、それから手を前に出した。
指が動く。一つ、二つ、三つ。手際がいい。三年かけて体へ入れたと言っていた。嘘には見えなかった。
三つ目で、止まった。
僕は、その手の先をじっと見た。四工程の下に、細い流れが確かに透けている。僕にはいつも見えるものだ。橋の下で、狼のとき、この娘の火の奥にそれが見えて、僕は初めて四つ全部を掴んだ。あのとき見えたものが、今も同じようにそこにある。
セラにも、これが見えるだろうか。触れるだろうか。
「……なんか、ある気がする」セラが言った。声が小さい。「あるような、ないような」
「無理に掴むな。掴もうとすると、逃げる」
「逃げるって、何」
うまく答えられなかった。逃げる、としか言いようがない。僕にとってはただそこにあるだけのものを、言葉にしようとすると、途端に嘘くさくなる。
セラの指先で、透けていた流れが、揺れた。ほんの少し、こちらへ傾いた気がした。
次の瞬間、火がついた。
四つ目を、置いてしまったのだ。手が、慣れた順番に勝手に動いた。ぽっと、いつものセラの火が、掌の上に灯る。
「あ」
セラが火を見て、それから僕を見た。
「……今の、下のやつ?」
「分からない」正直に言った。「見えていた。でも、お前が触ったのかどうかは、僕には確かめようがない」
「また分からない、だ」
「本当に分からないんだ」
セラは火を消した。掌を開いたまま、しばらくそこを見ていた。何かをもう一度捜すみたいに、指を少し曲げたり伸ばしたりした。
見つかったのかどうかは、顔からは読めなかった。
「ねえ」セラがまた言った。
「なんだ」
「やっぱり、学園に言えばいいのに」
来た、と思った。
「言えば?」
「あんた、遺跡の字が読めるんでしょ。研究院でも、学園でも、言えばいい。そしたら、こんな裏でこそこそしなくていい。ちゃんとした場所で、守ってもらえる」
守ってもらえる。セラは、そういうふうに世界を見ている。頼めば、囲ってくれる。そういう育ち方をしたんだろう、とまた思った。悪いことじゃない。
でも、僕には当てはまらない。
言葉を探した。灰の村まで戻らずに済む言葉を、探した。
「囲われると」僕は言った。「たぶん、僕は歩かなくなる」
「歩く?」
「守られてる間は、自分の足を使わない。使わないと、そのうち、歩き方を忘れる」
我ながら、下手な言い方だった。半分も渡せていない。囲われることの本当の重さは、この裏の草地の話じゃない。もっと前の、まだ渡していない話につながっている。そこまでは、まだ口が動かなかった。
セラは、すぐには何も言わなかった。膝を抱えたまま、僕の顔の、たぶん目のあたりを見ていた。
「……よく分かんない」
「だろうな」
「でも」セラは続けた。「歩き方を忘れたくないってことは、分かった」
それで足りる気がした。全部は要らない。
セラは立ち上がって、草を払った。
「明日も来る?」
「たぶん」
「わたしも来る」少し間があった。「言わない。学園にも、研究院にも。あんたが歩けるうちは」
あの娘の顔を見た。
言わない、という言葉が、こんなに軽く出てくるものだとは思っていなかった。頼めば守られる側の人間が、守られる道を、自分から一つ閉じた。それがどれくらいのことなのか、セラ自身は分かっていないのかもしれない。
僕には、分かった。
「セラ」
「なに」
「……ありがとう」
「気持ち悪い」セラは笑った。「そういうの、柄じゃないでしょ」
草をかき分ける音が、遠ざかっていく。
僕はその場に残って、もう一度、指先で流れを組んだ。
三本、寄せて、四本目。
束ねた先で、今度は、少しだけ長く保った。
保って、それから、ほどけた。
昨日より、ほんの少し、遅かった。
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