第107話「足場」
昼の鐘のあとで、院へ呼ばれた。
朝の草地の湿りが、まだ靴の底に残っている。塀の内側から、長机の並ぶ部屋へ。同じ日のうちに、僕は二つの場所を行き来する。片方は誰にも言えない場所で、もう片方は、僕の名が帳面に載っている場所だった。
研究院の扉を抜けると、紙とインクと、乾いた埃の匂いがした。
モスは奥の机で、いつものように指を汚していた。
「来たか」顔も上げずに、茶色く灼けた綴じ本を滑らせてくる。「この前の続きだ。虫の食ってない頁は全部。読めた行は今の字で写せ」
僕は座った。
下働きの頃は、この椅子に座るというだけで手を止める研究者がいた。今はもう、誰も見ない。籍が入るというのは、こういうことらしい。
頁に屈み込む。三代前の書役の癖は、もう手の内にある。
北の棟へ何を納め、南の棟から何を出したか。詩集の写し。法令。薬草の覚え書き。埃の下から、読める形が一行ずつ戻ってくる。
途中で、若い研究生が肩越しに紙を差し出してきた。風しか使えないと、前に自分で言っていた男だ。
「これ、読めるか。三行目のここ」
覗き込むと、一文字だけ墨が滲んで潰れていた。前後の崩し方から、見当はつく。
「『幸』じゃありません。『辛』です。横棒が一本、虫に食われてるだけで」
「……辛」研究生は紙を引き取って、しばらく黙っていた。「辛いほうか。それなら、この薬の話は通る」
「一年、そこで止まってたんだ」
「たまたまです」
嘘ではない。読めるものは読めるし、読めないものは何日眺めても読めない。ただ、たまたまの幅が、僕は人より広いらしい。
研究生が自分の机へ戻ってから、モスが鼻を鳴らした。
「一年だとさ」
僕は答えなかった。
「おまえの手は、そういう手だ」モスは筆を止めずに言った。「宝は、置く場所を間違えると無くなる。覚えておけ」
手は動いていた。頭の隅では、別のものを探していた。
あの一行だ。
――献上。城の奥、封じの蔵へ。
あれから、同じ手蹟の頁を見るたびに、目が勝手に走るようになった。何を送ったのか。誰が決めたのか。一行で切れた話の、その先。
半刻ほど写して、分かったことがある。
無い。
送ったという記録はある。送ったものの名を書いた頁が、無い。
綴じの糸を確かめた。切られた跡はない。前後の頁の数も飛んでいない。巻末の索引まで戻って、それらしい項を探した。北の棟、南の棟、書役の名。どれも順に並んでいる。その並びの中に、あの一行の行き先だけが無い。
破れているのでも、虫が食ったのでもなかった。初めから、そこには書かれていない。
誰かが抜いたのなら、まだいい。初めから書かなかったのなら、話が違う。
筆を置いた。
「モス先生」
「なんだ」
「封じの蔵の目録は、どこにありますか」
インクの音が止まった。
モスは顔を上げなかった。かわりに、部屋の奥へ一度だけ目をやった。長机の向こうで、二人が写しの手を動かしている。ずっと向こうの棚のあたりで、誰かが本の背を鳴らした。
「その名は、机の上で気安く出すな」
低い声だった。怒っているのとは、少し違った。
「……すみません」
「院には無い」モスは言った。「探すだけ無駄だ。あそこへ入ったものの目録は、院の棚には綴じられん」
「では、どこに」
「城だ」
筆の先が、紙の上で止まった。
「城の奥のものは、王家の許しが要る。院の名では出ない。院長が頭を下げても、たぶん出ん」モスはようやく顔を上げて、僕を見た。「読み手が読みたいと言って開く扉じゃない。覚えておけ」
僕は、それ以上は訊かなかった。
訊けば、なぜ訊くのかを訊かれる。
しばらく、二人とも手だけ動かしていた。研究者の一人が咳をした。窓の外を荷車が通って、石畳を鳴らしていった。
「おまえ」モスが先に口を開いた。「あの上着の男は、その後どうだ」
「来ません」
「そうか」
それきり、しばらく間があった。
「籍があるうちは、おまえは表にいる」モスは筆を置かないまま言った。「表にいる人間は、ある日いきなり消せん。それだけのことだ。……それだけのことが、たいてい効く」
庇っているのか、院の読み手を取られたくないだけなのか。どちらとも取れた。たぶん、両方だ。前にも、そう思った。
「ありがとうございます」
言ってから、居心地が悪くなった。
良い紙がある。明かりも足りている。冬でも指のかじかまない部屋で、僕は座って、読んでいる。
あの男が並べてみせたのと、同じものだった。
違うのは、紐の端を誰が持っているかだけだ。
今朝、僕は草の上で、囲われると歩かなくなる、と言ったばかりだった。
この椅子は、ずっと小さくて、ずっと行儀がいい。
それでも、椅子には違いない。
この籍が無ければ、僕はとうに、どこかへ持っていかれていた。持っていかれないために、自分から一つ目の紐を首にかけた。両方とも本当で、片方を捨てる方法が、僕には思いつかなかった。
僕は写しの続きへ戻った。手のほうは、ちゃんと動いた。
院を出たのは、日が傾いてからだった。
廊下の角に、セラがいた。壁に背を預けて、見るともなく中庭を見ている。僕に気づくと、背だけ起こした。
「終わった?」
「終わった」
それだけだった。
並んで歩き出す。何か言いかけて、やめる気配がした。一度ではない。二度、三度、口の形が動いて、そのたびに飲み込んでいた。
訊きたいことは、分かっていた。今朝の続きだ。あの下に何があったのか。触れたのか、触れていないのか。僕にも分からないと、そう答えたばかりだった。
でも、ここは廊下だ。人が通る。
あの娘は、廊下では訊かない。
言わない、というのは、黙っていることだけを指すんじゃないらしい。訊かないことも、その中に入っている。この娘の性分からすれば、それはたぶん、僕が思うより面倒なことだ。
「あのさ」中庭の手前で、セラが言った。
来たか、と思った。
「明日の朝、雨だって」
「……そうか」
「濡れるわよ、あそこ」
それだけ言って、あの娘は先に階段を下りていった。
濡れる、というのは、来る、という意味だった。たぶん。
僕は階段の上に残って、窓の外を見た。
城の方角には屋根が幾つも重なっていて、奥までは見えない。あの下のどこかに、読まれないようにしまわれたものがある。三代前に、この学舎から送られた何かが。
王家の許し。
持っていない。持てる見込みも、今のところ無い。
僕はまだ、良い紙の上で、他人が決めた棚の中身を写しているだけだ。
それでも、扉の在り処だけは、今日、分かった。
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