第108話「隠す手」
窓を開ける前に、匂いで分かった。
土と草が濡れている。あの娘の言ったとおりだった。どこで仕入れてくるのか知らないが、そういうことにはよく当たる。
塀の内側は案の定、水を吸っていた。靴が沈む。歩くたびに草の間から汚れた水が上がってきた。
離れの庇の下だけが、辛うじて乾いている。畳一枚ぶんもない。
塔が閉まってから、ここしかない。雨でも、ここしかない。
いつ開くのかは誰も言わない。開いたところで、あそこで組めるとは限らなかった。閉まる前だって、人の目はあった。
しゃがんで、指先で流れを組んだ。
火は出さない。水を引く溝みたいなものを細く三本。四本目を寄せて、束ねる。
束ねた先で、ほどけた。
三日目だ。同じところで同じようにほどける。雨のせいじゃない。晴れていてもほどけた。
庇から落ちる雫が、一定の間隔で草を打っている。数えるともなく数えているうちに、その間隔が乱れた。
「言ったでしょ。濡れるって」
振り向くと、セラが立っていた。頭から外套をかぶって、肩から下は諦めたみたいに濡れている。
「そこ、狭い」
「知ってる」
あの娘は勝手に庇の下へ入ってきて、僕を押しやるように座った。外套の裾から水が垂れて、乾いた土に黒い点をいくつも作る。
「続けて」
「見るのか」
「見るわよ。何しに来たと思ってんの」
手を動かした。どうせ止まる、と思いながら動かした。
三本。四本目。
束ねるところまで、来た。
僕のほうが驚いて、そこで散った。
昨日の朝は、こうじゃなかった。
背中で草が鳴った。それだけで組みかけの流れは指の間から逃げた。さっきまで途中まで来ていたものが、その途中にも届かなくなった。
見られると遠くなる。そういうものだと思っていた。
今日は見られている。同じ相手に、同じ場所で、昨日より近くで。
なのに束ねるところまで来る。
何が違う。
雨。狭さ。座り方。落ちる水の音。
どれも関係がある気がしない。
組み直しながら、昨日の朝の続きを思い返した。あの朝と今日のあいだに増えたものは、一つしかない。
——言わない。学園にも、研究院にも。
草を払って立ち上がって、ついでみたいに、あの娘はそう言った。
人前で火を出すとき、僕は二つのことをしている。
一つは火を出すこと。
もう一つは、それがまともな火に見えないようにすることだ。要りもしない詠唱を唱える。的の中心をわざと外す。指の速さを落とす。下手な学生の顔をする。何年もやっている。息をするのと変わらない。
組むときも、同じことをしていたんじゃないか。
人の目のある場所で流れに触れば、僕の手は勝手にそれを隠しにかかる。隠すのに手が要る。組むのにも手が要る。
手は二つしかない。
考えたこともなかった。隠すのはそういうものだと思っていた。上着みたいに、着ていれば済むものだと。
着ていれば済むなら、なぜ肩が凝る。
馬鹿らしい話ではあった。
遠くから眺めている誰かに、四工程の下が見えるわけがない。僕にそれが見えたのは、この娘の火を本人の手元で、間近で見たからだ。三年かけて体に入れた手つきを、目の前で。学生が離れたところから掴めるものじゃない。
だから怖れているのは、看破そのものじゃないんだろう。
見られたら終わる。その気だけが、手より先に来る。
試してみることにした。
目を閉じて、頭の中に仕立てのいい上着を立たせた。顔は思い出せない。声だけ、よく覚えている。
三本目の途中でほどけた。
目を開けた。セラは僕の手を見ている。見ているだけだ。
もう一度、組んだ。
束ねるところまで来た。
もう一度、目を閉じた。今度は上着の男を消して、代わりに講師を立たせた。名前も思い出せない男だ。害はない。僕の火を見て、下手だな、という顔をするだけの男。
ほどけた。
害がなくても、あの男の前では演じる。演じる相手なら誰でも同じらしい。
見られることじゃない。隠すかどうかだ。
確かめようがない。頭に立たせた男は本物じゃない。僕が怖がっているところを、僕が見ているだけだ。それでほどけたからといって、何かが証明されたわけでもない。
それでも理由らしいものが、初めて一つ、手元に落ちてきた。
もう一度。
三本、寄せて、四本目。束ねる。
束ねた先が、保った。
昨日より長い。雫が三つ落ちるあいだ。
息を詰めていたことに、途中で気づいた。気づいた分だけ、たぶん短くなった。
その先に五本目を寄せられる気がした。手を伸ばした。触れた、と思った瞬間に全部が一度に散った。
指のあいだに何も残らない。
息をついた。膝の泥が掌に移っていた。
セラが自分の掌を見た。指を三つ動かして、四つ目の前で止める。しばらくそのままでいて、それから諦めたように手を下ろした。
「今日は、何もない」
「無理に掴むな」
「掴もうとすると逃げる、でしょ。覚えてる」
覚えているから掴めるわけでもない。それは言わなかった。
「さっきより長かった」セラが言った。
「見て分かるのか」
「分かるわよ。あんたの手、正直だもん」
どういう意味だ、と訊く気にはならなかった。たぶん当たっている。
「……お前がいるからだ」
言ってから、少し間違えたと思った。
「は?」
「そういう意味じゃない」
「どういう意味よ」
言葉を探した。
「お前の前だと、隠す手が要らない」
本当の火を人前で出したのは、あとにも先にもこの娘の前だけだ。青の差した、細い火。あれを見せた日から、僕はここで隠す手を下ろせるようになった。下ろしていいと、体のほうが先に決めたらしい。
「それ、確かめたの」
「確かめようがない」
「また、それだ」
「本当に、そうなんだ」
あの娘は呆れた顔をして、それから少しだけ笑った。笑われるのは、悪くなかった。
セラは外套の水を絞りながら、しばらく黙っていた。
「じゃあ、わたしがいないと駄目じゃん」
「そうじゃない」
そうじゃない、と言いながら、たぶん、そうだった。
雨は上がりそうになかった。
伸びられるのは、隠さなくていい場所だけらしい。
この五年、そんな場所は一つもなかった。どこにいても僕は何かを隠していた。冒険者の札の下でも、研究院の籍の下でも。
それがどこにあるか数えるのは簡単だった。畳一枚ぶんの庇の下。一人ぶんの幅しかない。
塔は閉まっている。
喜んでいいのか、分からなかった。
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