第109話「合図」
雨は、飽きもせず降っていた。
僕はもう一度、指先で流れを組んだ。三本まではすぐに来る。四本目を寄せる。そのあたりで、指がひとりでに止まった。
組みかけの流れを止めたのは、ほどけたからじゃない。
庇の外の、水音の向こうを、うかがってしまったからだ。
離れの裏は、ふだん誰も通らない。それでも、通らないと決まっているわけじゃなかった。塀の切れ目の先に細い通りがあって、朝のこの時間は、学舎へ回る生徒がまれに使う。まれに、というのが厄介だった。来ないと思っていると来る。
組んでいる最中に誰か来たら、僕はどうするだろう。
たぶん、慌てて手を引く。引けば散る。散るところを見られる。あるいは、とっさに下手な火でも出して、ごまかそうとする。息をするみたいに、そうしてきた。
どちらも、あまり上手いやり方じゃない。
「さっきから、そっちばっかり見てる」
あの娘が言った。膝を抱えたまま、顎で塀の切れ目のほうをさす。
「見てない」
「見てる。手より先に、目が動いてる」
図星だったので、黙った。あの娘は僕の手を見ているようで、たぶん僕より僕を見ていた。
セラは立ち上がった。外套の裾から、たまった水がひとすじ落ちる。
「代わって」
「何を」
「そこ、あんたが入って。わたし、こっち」
言うより早く、あの娘は庇の外へ一歩出た。雨の側だ。塀の切れ目も、細い通りも、そこからならまっすぐ見える。かわりに、頭からしっかり濡れる。
「濡れるぞ」
「もう濡れてる」
そういう理屈じゃない、と思ったが、あの娘はもう背を通りのほうへ半分向けていた。見張るのに都合のいい角度だった。自分でそう立った。誰にも言われずに。
僕が庇の下の、乾いたほうへ押し込まれる格好になった。妙な具合だった。守られる側に回された気がして、落ち着かない。
「決めとこ」とセラが言った。「誰か来たら、わたしが喋りだす。研究院がどうとか、雨がどうとか、そういうの」
「それが合図か」
「そう。わたしが喋りだしたら、あんたは手を止める。ゆっくりでいい。ぱっと引くと、逆に目立つでしょ」
理にかなっていた。慌てて引くから散る。散るから見られる。はじめから止めると決めておけば、慌てなくて済む。
「喋る中身は」
「なんでもいい。あんたに向かって喋ってるように見えれば」あの娘は少し考えて、付け足した。「返事はしなくていい。したけりゃ、してもいいけど」
秘密の話は、しない。そういうことだった。口にしなくても、それで通じた。
やってみた。
僕が三本まで組む。セラが不意に「はい終わり」と言う。手を止める。ゆっくり、指を開く。流れは音もなく解けて、掌には何も残らない。慌てて引いたときみたいな、あの引きつれる感じがない。
「今の、悪くない」
「もう一回」
二度目は、止めるのが一拍遅れた。三度目は、止めたつもりが指の先に力が残っていて、解けきる前にわずかに散った。散りかたが、ふだんより静かだった。それだけでも違う。
ついでに、あの娘へ完全に背を向けてもらった。通りは見ていてくれと頼んで。見られていないはずなのに、一度は束ねる手前まで来て、次はもっと早くほどけた。少し離れて立ってもらっても、揃わなかった。近い遠いで決まるのでもないらしい。何が効いているのかは、相変わらず掴めない。
うまくいくときと、いかないときがあった。全部がうまくいったわけじゃない。ただ、慌てないという一点だけは、回を追うごとに手に馴染んでいった。
四度目の途中だった。
「――研究院、今日は昼からだっけ」
セラの声が、急に大きくなった。
僕は手を止めた。考えるより先に、手のほうが止まっていた。組みかけの流れは、そのまま、ゆっくり解けていった。
塀の切れ目の先を、傘が一本、通っていく。学舎の色の外套。顔は見えない。こちらを見た様子もない。誰なのかも分からない。ただの生徒だ。急ぎ足で、水を跳ねて、通りを行くだけ。
「昼から」と僕は返した。声が上ずらなかったか、自分でもよく分からない。
「じゃあ、まだ余裕あるじゃん」
傘は、こちらに気づきもせず、塀の向こうへ消えた。
水音だけが残った。
しばらく、どちらも黙っていた。あの娘は通りのほうを見たままだった。念のため、というふうに。
「行ったな」と僕は言った。
「行った」
僕は偽の火を作らなかった。慌てて手を引かなかった。散るところを、誰にも見られずに済んだ。
あの娘が喋りだして、僕が止める。それだけの取り決めが、ちゃんと働いた。次も同じようにやれる。今日だけの、まぐれじゃない。
セラはまだ、雨の中にいた。
外套は、もう外套の役をしていなかった。肩のあたりが濃く色を変えて、髪の先から水が続けて落ちている。見張るのに都合のいい角度のまま、あの娘はそこに立っていた。僕が乾いたところにいるあいだ、ずっと。
僕は手を下ろした。
「もういい」
「まだやれるでしょ」
「やれる。けど、もういい」
組みかけの流れを、最後まで組まずに解いた。惜しくなかった、と言えば嘘になる。束ねるところまでは、たぶん今日も来ただろう。その先も、少しは。
それより、あの娘が濡れているのが、目についた。
「入れ。そっち、寒いだろう」
「平気」
「僕が乾いてて、お前が濡れてるのは、なんか違う」
言ってから、うまく言えていないと思った。それでも、あの娘は少しのあいだ僕を見て、それから庇の下へ戻ってきた。さっき出ていったぶんの水を、外套から絞りながら。
狭い庇に、また二人ぶん。肩が触れそうで、触れない。前と同じだった。前と、同じはずだった。
ただ、さっきまであの娘の立っていた雨の側が、いやに広く見えた。あそこに誰かが立つというのは、囲われるのとは、少し違うのかもしれない。うまくは言えなかった。
鐘が遠くで鳴った。ひとつ。
昼までは、まだ間がある。それでも、下働きをしていた頃の癖で、鐘より先に着いておくことにしていた。いまは読み手の籍で、あそこにいさせてもらっている。遅れて困らせるわけにはいかない。
「そろそろ行く」と言った。
「うん」
立ち上がりかけた僕の袖を、あの娘が引いた。強くはない。ただ、行くな、というより、待て、という引きかただった。
「あのさ」
「なんだ」
「このまえの」あの娘は、自分の手を見ていた。指を三つ、宙で折ってみせる。「三つ目で止めて、その下に触るやつ。あれ、わたしにも、ちゃんと教えて」
自分でもやってみたい、というのが、言わなくても伝わった。
僕は、すぐには答えられなかった。あれは、誰かに教わったものじゃない。渡す形にしたことも、ない。渡せるのかどうかも、分からない。前にもそう言った。
「……分からない」
「また、それ」
「本当に、分からないんだ。でも」
でも、の先を、僕はまだ持っていなかった。だから、そこで切った。
あの娘は、それ以上はせがまなかった。雨のほうへ目を戻して、小さく息をついた。
庇を出た。雨は、あいかわらず上がる気配がない。
塀の切れ目まで来て、一度だけ振り返った。あの娘は庇の下から、片手をあげた。行け、というふうに。さっきの合図とは、違う手つきだった。
僕も、たぶん同じような手つきを返して、通りへ出た。
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