第110話「先例」
昼の鐘のあとで、また院へ行った。
朝の草地の泥が、まだ靴の縁に残っている。雨はやまない。研究院の中まで湿った紙の匂いがして、いつもより人が多かった。
下働きの頃なら、この人いきれに僕の座る隙はなかった。今は違う。誰も僕を見ない。見ないというより、見ている暇がないのだ。みんな、下の件でぴりついている。
モスが、いつもの綴じ本ではないものを寄越した。もっと古い。表紙もない。麻紐で束ねただけの、帳面の寄せ集めだ。
「塔の記録だ」インクの染みた指で、束を押してくる。「掘られてから今日まで、下でひとつでも動きのあった年の分。読める行は、今の字で写せ」
「これを、何に使うんですか」
「訊くな。上が要ると言ってる」
上、が院長なのか、その先なのかは、口ぶりでは分からなかった。
紐をほどいて、古い順に並べた。
どの年も、書きようは似ている。浅いところは静かだ。深いところから、季節の変わり目に、時々あふれる。それを規定どおりに閉じ、規定どおりに人を入れ直す。何十年、判で押したように同じだった。
僕は写しながら、別のものを探していた。
あの日と同じ型が、どこかにないか。
浅い層に、深いところの獣が、ひとりでに上がってくる。あんな個体が、あんな浅さに。あれが季節のうちなら、昔にも一度はあっていいはずだった。
無かった。
何十年ぶんめくっても、深い獣が浅い層まで上がった年は、一度も無い。あふれるのはいつも下から順で、飛び越えることはない。あの日のあれは、この束のどこにも先例がなかった。
先例がない、というのは、厄介な言葉だった。
僕には、それが何を意味するか分かる。塔で、あの巨体を間近に見た。誰かが引き上げたのではないか。そう疑いたくなるほど、あんな浅さまで来る動きは、記録のどこにもなかった。
でも、記録の上では、そうは書かれないだろう。
この件も、いずれ誰かがこの束に一行で足す。――某年、下に動きあり、規模やや大。規定どおり対処。季節の変わり目。それで終わりだ。先例がない、とは書かれない。書く者が、下で何を見たかを知らないから。
昼を過ぎて、部屋に教官が入ってきた。
あの日、僕の訴えを、気の迷いだ、季節でざわつくだけだと払った男だった。今日は、その顔に余裕がない。院長の机の前で短くやりとりして、束のいくつかを抱えて出ていった。僕の写した紙も、その中に混じっていた。
目は合わなかった。合わせない、というふうだった。
束の底のほうに、一枚だけ、毛色の違う頁があった。
ある年の氾濫の記録に、後から別の手で書き足しがある。本文の几帳面な字とは違う、急いだ走り書きだ。
――下より上がりし個体、季節に非ず。
そこまでで、あとは墨で潰されている。潰した上から、几帳面なほうの手が、いつもの一行を書き直していた。規定どおり対処、季節の変わり目、と。
誰かが、昔も、季節では説明のつかない動きに気づいた。気づいて、書いた。そして、それは消された。
消した手は、丁寧だった。
この束は、院の控えだ。年ごとの覚え書きを、あとで綴じ直したもの。事の起きた年だけ、こうして一枚ずつ残っている。
その頁の下の隅に、小さく添え書きがあった。見覚えのある形だ。ここのところ、僕が同じ字ばかり追いかけている、あの手蹟。
――別紙、献上。城の奥へ。
筆が止まった。
控えはここに残っている。詳しいものは別に仕立てて、城へ送った。そういう印だった。潰された走り書きの中身は、この控えには残らない。送られた先でしか、読めない。
背筋の裏を、冷たいものが伝った。
城の奥がどういう場所かは、少し前に聞いたばかりだった。あそこのものは、王家の許しがなければ出ない。読み手が読みたいと言って開く扉じゃない。
そこへ、季節に合わない獣の話が送られている。
決まりで、変わった記録はみな上へ送るだけかもしれない。偶然かもしれない。それでも、と思ってしまう。もし同じ手が今も動いているなら、僕が塔で見たものをどれだけ口にしても、行き着く先は決まっている。城の奥だ。潰された墨の、その下だ。
そうとしか思えなかった。けれど、確かめたわけじゃない。
そして、それを昔から知っていそうな者を、僕はもう一人、知っている。
仕立てのいい上着の男。下で何かが動いているのを掴んでいる、と言った声。あれは当てずっぽうじゃなかったのかもしれない。この束の底にあるようなものを、あの男は前から知っていたのかもしれない。そう考えると、いくつかの辻褄が合った。
モスが、いつのまにか僕の手元を見ていた。
「その頁は」低い声だった。「写さなくていい」
「……はい」
「写した分からも、その一枚は抜いておけ」
僕は言われたとおりにした。手が、少し遅れた。
抜いた一枚を、モスは自分の袖の下へやった。燃やすのでも、上へ送るのでもない。袖の下へ。前に、そういう手つきを見た気がした。ずっと前だ。名を偽って会った、蔵の番人の手に、少し似ていた。
院を出るとき、院長が誰かと話しているのが聞こえた。
塔を、いつまでも縄で締めておくわけにはいかない。近いうちに下へ人を入れて、あの日のことを検分する。そういう話だった。
「下の層まで下りられる者を」と院長が言った。「札を持っていて、あの日、実際に下にいた者がいい。道を覚えているだろう」
あの日、下にいた者。札を持つ者。
部屋の中の誰かが僕の名を出すのに、そう手間はかからないはずだった。
外は、まだ降っていた。
朝、セラの立っていた雨の側が、いやに広く見えたのを思い出した。
あそこは、まだ広い。そして今度は、僕のほうから、また下へ降りていくことになりそうだった。潰された墨の、その下へ。
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