第96話「粗布を脱ぐ」
籍が下りたと、モスから聞かされたのは実技の三日後だった。
研究院の長机で、モスは一枚の紙を僕の前に置いた。学舎の印。僕の名。生徒としてこの学舎に加わることを認める、という短い一文。
「研究院預かりの編入だ」モスはインクの染みた指でその一文を叩いた。「正規の入学とは違う。貴族の子弟が踏む道でもない。読み手として院が抱え、実技は二属性でどうにか格好がついた。……はみ出し者の枠だな。だが席は席だ」
はみ出し者の枠。悪くない響きだった。僕は、どこの枠にももとから収まったことがない。
「粗布は返せ」モスは顎で部屋の隅の畳んだ布を示した。生徒の着る地味だが仕立てのいい外套。「明日から、それを着ろ。……下働きは、今日で終いだ」
その夜、僕は下働きの寝棚を引き払った。
荷はもともと少ない。外套の下の首飾りと擦り切れた冒険者の札と、それだけだ。持ち出すほどのものは、この数十日で何一つ増えていなかった。
寝棚を引き払う前に、僕は物置へ寄った。
誰も使わない道具の眠る狭い部屋。ここで幾夜も、蝋燭のまん中を狙った。誰の目もない暗がりで、面をかぶらずにまっすぐな火を出せるたった一つの場所だった。生徒の部屋は一人きりだと聞いた。だがきっとこの暗がりほど気楽ではない。壁の薄い棟で隣に人のいる部屋で、僕はもう、うかつに火も出せない。
最後にもう一度指先へ小さな火を灯して、すぐに消した。ここでの稽古も、これで終いだ。
寝棚を出るとき、年かさの男と土間で行き合った。
男は、僕の腕にかけた新しい外套をちらと見た。それから、ふん、と鼻を鳴らす。ずっと前に言われたことがある。目立つやつは、いなくなる。上に引かれるか、疎まれて弾かれるか。どっちにしろ消える、と。
「……消えるんだな。やっぱり」
棘は、なかった。当たった予言を、確かめるだけの声だった。
「世話になりました」
「世話なんざ、してねえよ」男は水桶を担ぎ直した。「達者でな。……向こう側で、埃かぶって錆びつくなよ」
それだけ言って、行ってしまった。僕はその背中に頭を下げた。名も知らない男だった。最後まで、互いに名乗らなかった。それでも、この数十日、水場で「おう」と言ってくれた数少ない一人だった。
向こう側へ片足を、と言われていた。今、両足で渡りきる。渡ってしまえば、こちら側の顔はもう遠くなる。
翌朝、僕は生まれて初めて、生徒として講堂の椅子に座った。
隅ではなかった。編入生の並ぶ中ほどの列だ。両隣に仕立てのいい外套の若者がいる。粗布のときは、誰も僕を見なかった。今は、違う。ちらちらと横目が刺さる。下働きから生徒になった男。噂の、火と風の。誰なのか、どこの家か、後ろ盾は誰か。彼らの目がそれを探っている。探って、答えが出ないことに苛立っている。
前の席の二人が、僕に聞こえるか聞こえないかの声で何か言い交わした。下働き上がり、という言葉の切れ端だけが、耳に届いた。振り向きはしなかった。振り向いたところで、僕に返せる家名はない。
僕には答えられる家がない。名乗れる後ろ盾もない。あるのは、はみ出し者の枠と、偽物の詠唱と隠した本当の火だけだ。
外套は身体に馴染まなかった。生地は上等で肌触りもいい。だが、着ていると自分の皮膚の上に、他人の皮を一枚重ねている気がした。粗布のほうが、まだ素肌に近かった。
実技の講義で、その顔を見た。
中庭の的の前に、生徒が並んでいる。そのなかに、赤い髪があった。あの娘は、僕が列にいるのを見つけると、目をほんの少しだけ見開いた。それから澄ました顔に戻して、つい、と横を向いた。
だが、その口の端が、ほんの少し上がっていた。
ざまあみろ、とでも言いたげな。あんたを隅に置いておく気はない、と言ったあの宣言を、自分で果たしてやった、という顔だ。
腹が立つ。何もかも、この娘の掌の上で転がされている気がする。
実技が始まると、あの娘は、まっすぐな火を澄んだ詠唱で、的の中心へ置いた。生まれついた流れの、迷いのない火だ。僕は、その隣で、覚えた呪文を口で転がし、わざと端を灼く鈍い火を出した。
あの娘は僕の火を見なかった。見れば、また、あの目をするから。あんなの、あんたの火じゃない、という目を。見ないでいてくれる。その気遣いが、なぜかいちばんこたえた。
実技のあと、水を飲みに井戸端へ回ると、あの娘が先にそこにいた。
「編入生さん」わざとらしくそう呼んだ。「粗布より似合ってるじゃない。外套」
「……重いだけだ」
「そうでしょうね」あの娘は柄杓の水を一口飲んだ。それから声を落とした。「あの火、いつまで続けるつもり。端っこばっかり灼いて。見ててやきもきするのよ」
本当の火を知っている者だけが言えることだった。周りに聞こえないよう、声を落として。僕を暴いた本人が、僕の隠しごとをいちばん気にしている。
「……順番がある」
「知ってる」あの娘は柄杓を返した。「でも、あんまり長く待たせないでよ。わたし、気が短いんだから」
何を待つのか、とは訊かなかった。訊けば、はぐらかされる。あの娘も僕も、肝心なことは、いつも半分だけ言ってあとは呑む。似たもの同士だ。
生徒になっても、隠すものは何一つ減らなかった。むしろ、増えた。
毎日、詠唱の面をかぶる。まっすぐ伸びる火を途中で折る。風と火を決して混ぜない。別属性は指の先にも出さない。表に立つというのは、隠す手が増えるということだった。暗がりで一人、蝋燭を消していたころのほうが、僕はずっと自分の火に近かった。
だが。
その夜、生徒に割り当てられた狭いが一人きりの部屋で、僕は窓の外を見た。学舎の奥。灯りの消えた棟のさらに向こう。格子の禁書庫が、闇のなかに沈んでいる。あの向こうに、誰も読めない字が眠っている。そのまた奥、城の封じの蔵に本当の記録が。
下働きの粗布では、あの棟に近づくことすら許されなかった。だが、生徒なら。読み手の生徒なら、いつか、あの格子の前に、正面から立つ日が来るかもしれない。
塔は、むしろ通いやすくなった。あの実習の迷宮は、もともと生徒が潜る場所だ。B級の札もある。下働きが夜明け前にこっそり忍び込んでいたのがこれからは生徒として堂々と行ける。火と風を、剣を体を鍛える場所は失わずに済んだ。それは素直にありがたかった。ただ、あそこにも生徒の目はある。二属性の顔を覚えられた今、無詠唱の火や、火と風を混ぜるところを同じ塔の誰かに見られるわけにはいかない。堂々と通える場所で、いちばん見せたい流れをまた隠す。どこへ行っても、隠すものが一つ増えるだけだった。
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