第95話「型をなぞる」
あの日から、二日たった。
セラが講堂で放った一言は、噂の脚に乗ってもう学舎のあちこちを走っているらしかった。下働きの読み手が、実は火と風を使う。二属性だ、と。水場で下働きたちが僕を見る目に、また一つ別の色が混じった。気味悪がるのとも、遠ざけるのとも違う。値踏みだ。こいつはいったい何者なんだ、という目だ。
僕がいちばん集めたくなかった目だった。だが集まってしまったものは、もう散らせない。
三日目の朝、モスに呼ばれた。研究院ではなく、裏手の使われていない古い中庭へ。講師が先に立っていた。
「聞いたぞ」講師は前置きもなかった。「火と、風。使えるそうだな。見せてみろ。ここには私とモスしかおらん。……いや」
中庭の入り口へ目をやる。石壁の陰に赤い髪が半分だけのぞいていた。
「言い出した本人も、いるようだ」
あの娘は隠れる気もないらしく、壁から出てきた。腕を組んで素知らぬ顔で立つ。見届けるつもりだ。自分が引きずり出した相手が、どうなるのかを。
講師が古い木の的を三つ並べた。焦げ跡だらけの実技に使い古された的だ。
僕は息を整えた。
火を出すことに迷いはない。物置の暗がりで蝋燭のまん中を何百と狙ってきた。的の一つを灼くくらい造作もない。問題はそこではなかった。
どう出すか、だ。
僕の火は詠唱をしない。手のなかで流れを組んでそのまま放つ。それが僕のやり方だ。だがそれを見せてはいけない。この学舎で詠唱なしに火を出す者は、無詠唱を操る一握りの天才か――でなければ、まともな現代魔法使いではない、何か別のものだ。僕はその別のものだと知られてはいけない。
だから、面をかぶる。
冒険者の街で、幾度もそうしてきた。誰かの詠唱を盗み聞きして口だけ真似る。意味のない呪文を唱えて、そのあいだに手のなかで本当の流れを組む。呪文は、火を出さない。火を出すのは僕の手だ。だが傍からは呪文を唱えて火を出したように見える。二属性のありふれた現代魔法使いのように。
僕は的へ向き直り、口のなかで覚えた呪文を転がした。火よ、我が指に宿れ――誰かの受け売りの、意味などない言葉。唱えながら、指の下で本当の流れをそっと組む。
的の一つがぼっと燃えた。
悪くない火だった。だが僕はわざと、的の中心を外した。端のほうを少し大きく、雑に灼く。物置で磨いたあの絞りの精度は、見せない。まん中の一本だけを消すような芸当は、この場では毒だ。ありふれた火は、ありふれた雑さで燃えなければならない。上手すぎる火は、下働きには似合わない。
次に、風。また別の呪文を唱えて、二つ目の的をどっと押し倒す。狙いすました一点ではなく、幅の広い大ざっぱな風。加減して、鈍く。
三つ目の的の前で、僕は少しだけ手を止めた。ここで火と風を重ねれば――追い風に火を乗せれば、的は一瞬で炭になる。だがそれは、二属性を"別々に持つ"者にはできない芸だ。混ぜてはいけない。混ぜた瞬間、僕はただの二属性ではなくなる。
僕は、火だけで、三つ目を灼いた。物足りない火で。
わざと下手にやるのは、上手くやるよりずっと難しかった。手は勝手にいちばん効く形へ行こうとする。物置で何百と繰り返して体に刻んだ形だ。それを途中でわざと崩す。まっすぐ伸びようとする火を、指で折る。いちばん磨いた芸を、いちばん見せたい場所で殺す。それは火を出すことよりもよほどこたえた。
講師は、腕を組んで、しばらく的を眺めていた。
「……なるほど。火と、風。二属性か」値踏みの声だった。「詠唱はいささか癖があるな。我流か」
うなじが、ひやりとした。
「独りで、覚えたので」
「だろうな。型がどこの流派とも違う。……まあ、いい。魔法は結果だ。的は、燃えた」講師は、ふ、と息を吐いた。「二属性の読み手。悪くない。これなら実技の門もくぐれんことはない。籍の話、モスと詰めておく」
編入。籍。ずっと遠くにあった言葉が、急に手の届くところへ降りてきた。セラが、講堂で無理やり引き寄せた糸の先で。
僕は、うまく喜べなかった。
喜ぶべきなのは分かっていた。ずっと欲しかった表への一段だ。だがその一段を昇るために、僕はたった今、自分の火に、他人の名前を貼った。欲しかったものの手前で、いちばん大事なものを一枚、脱いで預けたような心地だった。
的の焦げ跡から目を上げると、壁ぎわのあの娘と、目が合った。
勝ち誇った顔をしていなかった。
あの娘は僕の火を見ていた。冒険者の街で、あの娘は、僕の本当の火を見ている。詠唱もなく、手のなかから、まっすぐ出る火を。今、目の前で僕が唱えた呪文が、その火と何の関係もないことを――たぶん、この娘だけが気づいていた。
自分が引きずり出した相手が、明るいところへ出るために、下手な呪文を唱えて、わざと下手な火を出している。それを、あの娘は黙って見ていた。腕を組んだまま、口を真一文字に結んで。
勝手なことを、と僕は言った。あの娘は、余計なことを、と僕を明るいところへ突き出した。その明るいところで、僕がまず最初にしたことは、面をかぶることだった。あの娘の目が、それをちゃんと見ていた。
講師とモスが、籍の段取りを話しながら、中庭を出ていく。
僕は、燃え残った的の前に、少し残った。掌には、まだ火の名残の熱がある。本当の火の熱だ。それを、偽物の呪文でくるんで、人前に出した。またひとつ、自分の上に、他人の顔を貼りつけた。
「……あんなの」
壁ぎわで、あの娘が、ぽつりと言った。こちらを見ずに。
「あんなの、あんたの火じゃないでしょ」
図星だった。返す言葉がなかった。
「わたしが見たあんたの火は、もっと」言いかけて、あの娘は口をつぐんだ。それ以上は言わなかった。言えば、この中庭のどこかで、誰かが聞いているかもしれない。噂の脚は、速い。それを、この娘はもう知っている。
僕たちは、しばらく黙って的を見ていた。
明るいところへは、出た。だが、そこで僕は、いちばん見せたい火を、隠したままだ。表に立つというのは、たぶん、そういうことだった。隠す場所が、暗がりから光の下へ、移っただけ。
それでも、と思う。この娘だけは、僕の本当の火を覚えている。隠した火を、隠したと知っている者が、一人だけ、この明るいところにもいる。
それは、思っていたよりずっと、悪くない心地だった。
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