第94話「呼ばれる」
聴講の席に通ううち、講堂の隅にも、少しずつ馴染みができた。
といっても、人ではない。いつも座る扉のわきの端の椅子。木目の擦れた肘掛け。そこから見下ろす、正規生たちのまっすぐな背中。誰も僕に話しかけないし、僕も誰にも話しかけない。ただ講師の声を聞き、頭のなかで字を追う。筆は持たない。書きとめなくても、たいていは頭に残る。それを見て、近くの正規生が一度だけ気味の悪いものを見る目をした。それきり、誰も僕の手元を見なくなった。
塔通いは続けている。流すは、十のうち八でこのごろ止まっていた。八から先が、遠い。だがそれも、夜の暗がりの話だ。昼の僕は、字だけを追う。
その日の講義は、いつもと少し違った。
壇上の講師が一枚の古い写しを掲げた。崩し字だ。三代前の書役の、癖の強い手。
「これを、読める者は」
講師は講堂を見渡した。下の段の正規生たちが写しに目を凝らす。眉を寄せ、首をかしげ、やがて一人が読み上げかけて途中で詰まった。「……北の、蔵に納めた、なに、が――ここから、読めません」
別の一人が引き取る。だが、その先も続かない。癖字は二、三行で書き手の手癖を掴まないと、一文字も進めない。整った字を大勢で読むのに慣れた者ほどそこで足が止まる。
講師はしばらく黙って待った。それから視線を上げた。まっすぐいちばん上の、扉のわきの隅へ。
「そこの、聴講の」
僕の背が、椅子の上で固まった。講堂じゅうの首がいっせいに後ろへ回る。粗布の下働きが一人、いちばん上の隅に座っている。その事実に今さら気づいた顔がいくつもあった。
「モスから聞いておる」講師は淡々と言った。「崩し字を読む、と。読んでみせろ」
逃げ場はなかった。読み手としてこの席にいる。読めないふりをすれば、席そのものが嘘になる。
僕は写しに目を落とした。二行で書き手の癖が指の下に立ち上がる。あとは、そのとおりに追うだけだ。
「北の蔵に納めた覚え書き。……古い堰の、普請の記録です」できるだけ平らに読み上げた。「どの年に、どこの川の、どの堰を直したか。石を何荷運んだか。人足を何人使ったか。……ただの普請の帳面です」
講堂が、静かになった。
「続けろ」
「次の頁は、日照りの年の水の割り当ての諍い。上の村と下の村で、堰の水をどう分けるかで揉めたその裁定の写しです。……ここから先は、紙が焼けて、読めません」
僕は顔を上げた。読めない、と正直に言える場所でそう言うのは妙に落ち着いた。
講師は、ふ、と息を吐いた。値踏みが済んだという顔だった。
「諸君」講師は講堂へ向き直った。「今の、聞いたな。堰の普請、水の裁定。……くだらん、と思うか」乾いた声だった。「三代前、この国のどこでどの川が人の暮らしを支えていたか。それがこの一枚に残っている。読める者がいなければ、それは〝無かったこと〟になる。読める者が一人いれば、三代前の川が今日、よみがえる」
誰も、口をきかなかった。
僕は、居心地が悪かった。褒められているのではない。使われているのだ。読めない大勢の前で、読める一人を立てて、読むとはこういうことだと見せるための。それでも――堰の水の話をしたとき、下の段の何人かの目の色が少しだけ変わったのは本当だった。くだらないと思っていたものが急に、誰かの暮らしの形をして立ち上がる。その瞬間の顔を僕は上の隅から見ていた。
その顔のなかに、赤い髪が一つ混じっていた。
あの娘だ。振り返りこそしなかったが、筆を止めて、まっすぐ壇のほうを見ている。その横顔が、自分が読んでみせたかのように少しだけ得意そうだった。何もしていないだろう、あんたは。腹の底で、そう毒づいた。毒づきながら、少しだけ、救われてもいた。
講義が終わると、講師が僕を壇の下へ呼んだ。
「読む目は、悪くない」写しを片づけながら言った。「モスが抱え込みたがるわけだ。……だが、惜しいな」
「惜しい?」
「読むだけでは、この学舎では、いつまでも聴講だ」講師は僕を見た。値踏みの続きだった。「籍が欲しければ、いずれ実技を問われる。読み手にも、最低限の魔法の心得は要る。……お前、属性は」
うなじが冷えた。来た。いちばん、答えたくない問いだ。
「……無いようなものです」
嘘ではない。鑑定は無属性。ゼロだ。だがそれを言えば、下働きの読み手のまま天井が決まる。火と風の二属性だと言えば――言えるのだ。詠唱をつけ、型をなぞれば。冒険者の街では、そうしてきた。だが今、この粗布で火を出せば、〝紛れる〟ではなく〝目立つ〟になる。名簿に載ったばかりの細い糸が、それで切れかねない。順番がある、何ごとにも。だから僕は、無いようなもので通すつもりだった。
その言葉が宙で乾ききらないうちだった。
「――嘘」
声が横から飛んできた。いつのまに降りてきたのか、壇のすぐ下にあの娘が立っていた。扉のほうでは、まだ何人かの正規生が帰りかけた足を止めてこちらを窺っている。
「この人、火も風も使えます」あの娘は講師にまっすぐ言った。声を落としもしない。「わたしが見ました。一度や二度じゃない。〝無いようなもの〟なんて、とんでもない」
時が止まった気がした。
やめろ、と言う間もなかった。喉の奥で、その言葉は凍りついた。今この娘は、僕がいちばん長く伏せてきた札を講師の前で、生徒の耳のあるところでめくってみせた。火と、風。二属性。順番を待って、まだ隠しておこうとしていたその札を。
あの娘は僕を見なかった。講師だけを見ている。目がいつになく硬い。詰め寄るときのそれとも、火を撃つときのそれとも違う。何かを賭けている目だった。
なぜ、と思う一拍のあとで腑に落ちた。この娘は知っているのだ。仕立てのいい上着の男が、僕を探して回っていることを。名無しの下働きなら、いつでも、そっと消せる。だが――講師の前で、生徒の前で、〝火と風の使い手〟だと言い立てられた男は、もう、こっそり攫うには目立ちすぎる。
この娘は、僕を裏の手から引き剥がすために、わざといちばん明るいところへ、僕を突き出したのだ。
講師の眉が片方だけ上がった。値踏みの目が深くなる。
「――ほう」写しを持つ手が止まっていた。「火と、風。二属性の読み手か。それは惜しいどころの話ではないな」僕へ向き直る。「本当か」
嘘だと言えば、この娘が嘘つきになる。本当だと言えば、伏せてきた札が、表を向く。
どちらの口も、うまくは開かなかった。
「……昔、少し」やっと、それだけ濁した。
講師は、その濁しの底を見透かすように、しばらく僕を見ていた。それから、ふ、と息を吐いた。
「まあいい。言いたくないなら、それでいい。だが――この学舎で上へ行く道は、いつだって実技の門をくぐる。読むだけでは、いちばん奥の戸は開かん。二属性の読み手だというなら、なおさらだ。近いうち、見せてもらう」
本気ともただの脅しともつかぬ声だった。写しを抱えて講師は壇を下りていった。
いちばん奥の戸。講師はただの喩えで言ったのだろう。だが僕の胸には別の戸が浮かんでいた。城の奥、封じの蔵。あそこへ行くにも、たぶん読むだけでは足りない。
講堂を出ると、柱の陰にあの娘が待っていた。今度は、まっすぐ僕を見た。
「怒ってる?」
「……勝手なことを」
「勝手でしょうね」悪びれもしない。「でも、あの男に先に攫われるより、ずっとまし。表に立ってしまえば、こそこそ連れてはいけない。隅で埃をかぶってるより、よっぽど安全よ」
言い返す言葉が、すぐには出なかった。腹は立っていた。同時に、この娘が、自分の顔まで表に晒して僕を明るいところへ引きずり出したことも、分かっていた。守り方が、昔から、乱暴なだけだ。
「……余計なことを」やっと、それだけ言った。
「知ってる」あの娘は少しだけ笑って、火の匂いを残して行ってしまった。
僕は、しばらく廊下に立っていた。伏せてきた札が半分、表を向いた。盾と的が、また一枚増えた。順番は、あの娘が勝手に一つ進めてしまった。
それでも――足の裏は、さっきより地に着いている気がした。隅の椅子から、明るい列のほうへ。行くと決めたわけではない。ただ、背中を思いきり押された。押したその手のことを、僕はまだ名前で呼べずにいる。
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