第93話「隅の席」
それから幾日か読み手の仕事は途切れなく回ってきた。
朝は水を汲み、昼は研究院で古い綴じ本を今の字へ写す。夜は塔へ潜って、空になるまで振る。流すは、このごろ十のうち八まで来ていた。だが火も風も、振るのは暗がりでだけだ。下働きが昼日中に火を出せば、粗布の男がなぜ、と目が集まる。集まった目は、いつか冒険者の頃の噂と細い糸で繋がりかねない。だから昼のあいだは、指の先に火の一つも点さない。
写しの束が厚くなるほど、モスの目の色が変わっていった。値踏みから、勘定へ。この手をどう使うかを考える目だ。
その日、写しを届けにいくと、モスは僕を長机の前へ座らせたまま、しばらく何も言わなかった。インクの染みた指で机を軽く叩いている。
「一つ、決めた」やがて言った。「お前を、聴講の席に入れる」
聴講。言葉の意味を僕は少し遅れて掴んだ。
「講義を聴いていいってことですか」
「古語と、記録の講義だけだ」モスは釘を刺すように言った。「実技は入れん。剣や魔法を習わせるためじゃない。読み手を育てる、そのための席だ。籍とは違う。だが、下働きの粗布のままで学舎の椅子に座れる。前例はあまりない」
なぜと訊く前に、モスが先に言った。
「勘違いするな。お前のためだけじゃない」机を叩く指が止まる。「読める手は、うちの宝だ。宝は外へ持っていかれる前に、こっちの棚へしまっておくに限る。名簿に名が載っていれば、余所の手が伸びにくくなる。……この前、院の入り口をうろついていた男がいたろう」
仕立てのいい上着の男。うなじがまた冷えた。モスもあの男を見ていた。見ていて、その上で僕を棚の内側へ入れようとしている。
「ああいう手合いは、名無しの下働きならいつでも攫える。だが学舎の名簿に載った聴講生を消せば、話が変わる。面倒が増える。面倒を嫌うのが、ああいう連中だ」
囲われる前に、表へ。あの娘の言葉と同じことを、この年かさの男は勘定ずくで言っていた。片方は心配から、片方は損得から。行き着く先だけが、同じだった。
断る理由は、なかった。
聴講の席は、僕をこの学舎の名簿に細く一本、縫いつける。名を書かれるのはずっと避けてきたことだ。名を書かれた土地から僕はいつも逃げてきた。だが今度は、書かれることが盾になる。妙な話だった。逃げるために消してきた名を、こんどは残すことで身を守る。
「……お願いします」
モスは、ふん、と鼻を鳴らした。それだけだった。
翌日、僕は初めて、講堂の椅子に座った。
子どものころ屋敷の講義部屋には入れてもらえなかった。無属性の子に学ぶ席は要らない。そう決められていた。扉の外の廊下で、中から漏れる講師の声を盗むように聞いた日もある。あのころの僕が今の僕を見たら、なんと言うだろう。粗布のまま、いちばん端でも、扉の内側にちゃんと座っている。
講堂はすり鉢のように段になっていた。下のほうの明るい席に、仕立てのいい外套の正規生が並ぶ。僕の席は、いちばん上の、扉のわきの隅だ。粗布のままの下働きが一人、椅子の端に座っている。それだけで、近くの何人かが身をよじってこちらを見た。すぐに前へ向き直る。値踏みするほどの相手でもない、という顔で。
それでよかった。隅は、僕にいちばん馴染む場所だ。
壇上の老いた講師が古い記録の話を始めた。三代、四代前の書役が残した帳面。今の字とは違う、崩れた手。
「――この時代の記録を読める者は、もう数えるほどしかおらん」講師は乾いた声で言った。「字が崩れておる。三代前の書役が、己にだけ分かるように走り書いた癖字だ。習えば読めんことはない。だが、習う者がもうおらん。今の学舎は、判で押したような綺麗な字しか教えんからな。読み手は年ごとに細り、記録は棚で埃をかぶる。諸君はこれを〝失われた〟と呼ぶ。だが正しくは、失われてはおらん。ただ、読める手が減っていくだけだ」
下の段の一人が気だるげに手を挙げた。「ですが先生。どうせ蔵の目録か、古い税の帳面でしょう。骨を折って読めても、出てくるのは何をどこにしまったかの覚え書きだ。掘り返して、何になるんです」
もっともらしい問いだった。講堂の何人かが小さくうなずく。読めない古い紙は、暇人の道楽だと。
講師は、すぐには答えなかった。かわりに一枚の写しを掲げた。崩し字ですらなかった。渦、枝分かれ、螺旋。今のどの字とも繋がらない、あの古い形だ。僕の背が、椅子の上で強張った。
「では、これは」講師は静かに言った。「目録か。帳面か。……誰にも読めん。だから我々はこれを〝文様〟と呼んで棚の隅へ片づけてきた。字ですらないただの飾りだと。だが、開いて確かめた者は、この百年、一人もおらん。読めぬものを、中身のない飾りと決める。それは学問か。ただの横着ではないのか」
講堂が、しんとした。
僕は膝の上で指を握った。
あの渦を、僕は読める。集める。散らす。閉じる。飾りではない。言葉だ。この講堂で、たぶん僕だけがそれを知っている。読めた、と口に出すな。谷の男の声が、いつものように鳴った。
傲りだ、と思った。読めないものを無いことにする。進んだ今があるのだから昔に用はない、と決める。その決めつけの底は、僕には昔から薄い氷のように危うく見えていた。いちばん大事なものは、たぶん、いちばん読めない場所に読まれないまま眠っている。
下の段の、いちばん光の当たるあたりに、赤い髪が一つ見えた。背をまっすぐ伸ばして、講師の言葉を書きとめている。あの娘だ。同じ講堂の、明るい席に。僕は、扉のわきの隅に。同じ屋根の下で、これだけ席が違う。
あの娘は、こちらに気づいていない。それでよかった。気づかれれば、また要らぬ噂が一つ増える。
講義が終わり、正規生がぞろぞろと下の扉から出ていく。僕は、上の扉から一人で出た。すれ違わないように。
廊下で、写しかけの一行を思い出した。城の奥、封じの蔵へ。今日読めた渦の、そのずっと奥だ。読める者がいないから、しまわれたまま眠っている記録。講師の言う〝失われた〟の、いちばん深いところ。
窓の外、実技棟のほうから、火や風の弾ける音がしていた。正規生が詠唱を唱え、明るいところで堂々と魔法を撃っている。
あの真似なら、僕にもできる。詠唱をつけ、型をなぞり、火風の二属性の生徒のふりをしてあの列に紛れる。冒険者の街では、そうやって切り抜けてきた。だが下働きの粗布では、その手は使えない。粗布の男が火を出せば、〝紛れる〟どころか〝目立つ〟だ。あの明るい列に立つには、まず、立っていい身分がいる。
読み手の隅の席は、その最初の一段だった。いつか二属性の生徒として、あの列に。隠しごとを胸の底に一つだけ残したまま、それでも表を歩く日が来るのかもしれない。灰の村を出たころは、明日、名を訊かれずにいることだけを願っていたのに。ずいぶん、欲が出てきたものだ。
今はまだ、隅でいい。隅からでも、読める。この目だけは、誰にも隠さなくていいのだから。
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