第92話「暴く手」
読み手の仕事が回ってくるようになって、僕の一日は少し変わった。朝は水を汲み、昼は書庫と研究院のあいだを本を抱えて往き来する。粗布は同じでも、運ぶものが桶から綴じ本に変わっただけで、すれ違う下働きの目がまた一つ遠くなった。片足どころか、体の半分が向こう側へ行きかけている。年かさの男とは、あれから口をきいていない。すれ違えば会釈は返す。だが向こうはもう忠告すらくれなかった。忠告は、まだこちら側にいる者にするものだ。
塔通いも続けていた。流すは、このごろ十のうち七度か八度まで来ている。組む前に手が先に動くあの感じが日ごとにはっきりしてくる。だがそれは、暗がりでだけの話だ。昼の光の下では、僕はまだ何も撃たない。撃てない。
その日、写しの本を抱えて回廊を曲がったところで、赤い火の匂いのする相手が柱に寄りかかって僕を待っていた。
偶然ではなかった。待ち伏せの立ち方だった。
「探したのよ」
腕を組んであの娘は僕を見上げた。今日は的も詠唱もない。ただ待っていた顔だ。
「研究院に出入りしてるでしょ。下働きのくせに」
「本を運んでるだけだ」
「本を運ぶ下働きが、院の机で紙に何か書き写してるって?」ぴしゃりと来た。「見てる人は見てるのよ。読める下働きがいる、って噂、もう回ってる。崩し字だか、古い字だか」
噂は水より速い。この学舎でもそれは同じらしかった。僕は黙って本を抱え直した。
「あんた、また目立つことしてる」
「目立ちたくてやってるわけじゃない」
「そうでしょうね。だから質が悪いのよ」
あの娘は、ふと僕の手元へ目を落とした。本を抱えた指の、剣だこ。燃えさしをつまむ夜のあいだにできた、小さな火ぶくれ。ひと目で、寝ていない手だと知れる。何か言いかけて、けれど今日は、それには触れなかった。追い回していたころなら、真っ先に噛みついていただろうに。
あの娘はそこで一度、言葉を切った。腕を組んだまま、回廊の左右へちらと目をやる。人がいないのを確かめる仕草だった。声が一段低くなる。
「この前ね、妙な男に声をかけられたの」
うなじが、ひやりとした。
「仕立てのいい上着。でも研究者でも学生でもない。地味な顔で人の顔をじっと覚えるような目で見る男。……その男が、わたしに訊いてきたの。〝読める下働きのことを、知らないか〟って」
本の角を握る指に力が入った。
あの、帳面に書きとめるような目の男だ。昨日研究院ですれ違って、囲いの誘いを置いていったあの男。それが今度は、あの娘にまで僕のことを訊いて回っている。網の糸が、僕の知らないところで、もう一本のびていた。昨日の男の声が耳の奥でよみがえる。囲いのなかは存外わるくない。良い紙と良い明かり。あのとき背筋を這った同じ冷たさが今またうなじを撫でた。
「知らないって答えたわよ、もちろん」あの娘は早口で言った。「あんな男にあんたのこと教えるわけないでしょ。でも――そういうことなの。分かる?」
分かった。分かりすぎるくらいだった。
「前に言ったでしょ」あの娘の声からとげが少し抜けた。抜けたぶん、固くなった。「変わった才の子は、学園の話より先に、どこかへ囲われて表から消えるって。使いつぶされるって。……あれ、脅しで言ったんじゃないのよ。ほんとにあるの。そういうこと」
覚えていた。あの娘に言われたことのなかでも、あれはいちばん後ろから追いかけてくる類のものだった。物置の暗がりで、何度も思い出した。そして昨日、その手は柔らかい声で暖かい部屋と良い紙を差し出しながら僕の肩へ伸びてきた。あの娘の言ったとおりに。
「わたしが暴くって言ったの、覚えてる?」あの娘はまっすぐ僕を見た。「火と、風。あれはね、あんたを困らせたいんじゃない。表に引っぱり出すためよ。ちゃんとした場所で、ちゃんと認めさせて。誰にも文句を言わせない形で、あんたを――」
言いかけて、口ごもる。頬に火を撃つときとは違う色がさした。
「……とにかく。あんな、帳面に書きとめる目の男に、先に攫われるためじゃないの。わたしが暴くって決めたんだから。順番を、間違えないでよ」
妙な理屈だった。暴くのも囲うのも、僕を勝手にどこかへ置こうとするのは同じだ。片方は明るい表へ、片方は暖かい囲いへ。どちらも行き先を決めるのは僕じゃない。
それでも、この娘のは、少し違った。
この娘は、僕を表へ引き出せば、そのぶん自分が矢面に立つことになるのを、たぶん分かっている。育ちのいい正規生が、素性の知れない下働きを庇う。それがどれだけ面倒を呼ぶか、分からないほど鈍くはない。分かっていて、なお、順番を間違えるな、と言う。
「余計なことは、しなくていい」僕は言った。「あんたが庇えば、あんたが妙な目で見られる」
「はあ? わたしの心配してるわけ、あんたが」
図星で、返す言葉に詰まった。あの娘は、ふん、と鼻を鳴らした。今度は、少しだけ嬉しそうにも見えた。腹が立つ。
「いい」あの娘は柱から背を離した。「あんたが何も言わないのは、もう慣れた。勝手に暴くから、勝手に。ただ、一つだけ」
指を、一本。あのときと同じに、僕へ突きつける。
「あの男が、今度あんたに直に何か言ってきたら。……〝はい〟だけは、言わないで。良い部屋も、良い紙も、〝はい〟って言った次の日から、鍵がかかるんだから」
それだけ言って、火の匂いを残して回廊を駆けていった。呼び止める名を、僕はまた呼ばなかった。呼べば、この娘をもっと、こっちの面倒へ引き込む気がした。あの娘は面倒を承知で首を突っ込む。僕は面倒を承知で口をつぐむ。似たもの同士のはずなのに、向いている先だけが、いつも少しずれていた。
抱えた本が、少し重くなった気がした。
囲う手と、暴く手。伸びてくる向きは逆でも、僕の腕を掴もうとするのは同じだった。どちらの手にも、悪気はない。片方は暖かく、片方はまっすぐで。それが、よけいに厄介だった。
僕が行きたいのは、そのどちらでもない。表の光でも、暖かい囲いでもない。誰にも読めない字が、読まれるのを待って眠っている、いちばん奥の戸だ。そこへは、暴かれても囲われても、たどり着けない。自分の足で、隠れたまま昇っていくしかない。
だが今日、その〝隠れたまま〟が、また少しだけ難しくなった。あの娘にまで、あの男の手が届いていた。網は、僕が思っていたより広い。
本を抱え直して、僕は研究院への回廊を歩いた。写しかけの一行が、頭の隅で光っていた。城の奥、封じの蔵へ。あそこまでは、まだ、誰の手も届いていない。届いていない場所が、一つでもある。それだけが、今日の僕の、細い息継ぎだった。
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