第91話「囲う手」
塔通いは、続いていた。
夜明け前に潜り、空になるまで振り、朝の水汲みまでに戻る。それを繰り返すうちに、掌の内で変わってきたものがあった。
流す、という一手だ。魔力を細く長く送り、狙った一点へ火の芯を寄せる。物置で蝋燭のまん中を狙っていたころは、頭のなかで筋道を一つずつ組んでからでないと送れなかった。組んで、確かめて、それから流す。手間取るあいだに蝋燭は揺れて的が動く。十のうち三度がやっとだった。
それが、このごろ違う。組もうと考える前に掌のほうが先に形を作っている。動く的へ指が勝手に芯を寄せていく。考えるより感じるほうが速い。まだ十のうち六度か七度だ。外すときは派手に外す。だが当たるときの手応えが前とは別のものになっていた。筋道を一つずつたどる稽古から、体が覚えて勝手に動く稽古へ、道が一段変わりかけている。
いつか、これが十のうち十になったら。組む手間さえ要らず、思っただけで芯が寄るようになったら。――あの氷を思い出す。指一本、声も出さずに狙った一点を凍らせた学生。あそこまでは途方もなく遠い。だが遠くに立つ形が見えているというだけで、朝はまた潜れた。
その日の昼下がり、書庫で傷んだ本を仕分けていると、あの若い研究生がまた顔を出した。風しか使えないと、自分で言っていた男だ。
「モス先生が呼んでる」前より、いくらか角の取れた声だった。「院まで来い。今日は使い走りじゃない。ちゃんとした仕事だとさ」
司書の老人は顎だけで行けと示した。止めはしない。ただその目の端に、この前と同じ案じる色があった。
研究院の長机の一つに、モスは僕を座らせた。下働きが院の机につくというだけで、妙な絵だったらしい。近くの研究者が二人、あからさまに手を止めてこちらを見た。モスは構わなかった。
「この前の蔵書録だ」茶に灼けた綴じ本を、僕の前へ滑らせる。「虫の食っていない頁は、全部おまえに読ませる。読めた行をこっちの紙へ書き写せ。今の字で、な」
正式な仕事だった。読み手として写しを作る。水汲みとは、月とすっぽんの扱いだ。
「籍の話は」僕は訊いた。
「働きぶりを見てから、と言ったろう」モスはインクの染みた指で紙の束を押しやった。「これがその、見てから、だ。読め」
僕は頁に屈み込んだ。三代前の書役の癖は、もう手の内にある。崩れた行を今の字へ移していく。北の棟に何を納め、南の棟に何を移したか。詩集、法令の写し、古い薬草の覚え書き。埃をかぶった宝の目録が、僕の手の下で、読める形に戻っていく。
半分ほど進んだところで、指が止まった。
一行だけ、ほかと違っていた。「――献上。城の奥、封じの蔵へ」。そう読めた。何を、とは書いていない。ただそこへ送った、とだけある。送り先の名に背筋がひやりとした。城の奥。封じの蔵。司書が格子を顎でしゃくって言った、もっと上、と同じ場所だ。
三代前、この学舎にあった何かが、読める者のいない字とともに、城の奥の蔵へ送られた。しまうために。読まれないように。
僕は、その一行を写す手を少しだけ緩めた。写しはする。だが心には別に刻んでおく。門の向こうの、そのまた奥。行きたい場所の在り処が、茶色い頁のたった一行に、たしかに書いてあった。
「精が出るな」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、地味な、けれど仕立てのいい上着の男が立っていた。研究院を出るとき、すれ違ったあの男だ。帳面に書きとめるような目で、僕の顔を確かめた、あの。近くで見ても、年の頃が掴めない。若くも老けてもなく、どこにでもいそうで、どこにも残らない顔だ。物腰は柔らかい。だが柔らかさの奥が読めなかった。
「モス殿から聞いた。崩し字を、二、三行で解くそうだな」男は僕の写した紙を、断りもなく一枚つまみ上げた。「しかも、正しく。……たいした手だ。こんな粗布のまま、水を汲ませておくのは惜しい」
褒め言葉のはずだった。だが、うなじの毛が逆立った。
「その手がもっと活きる場所がある」男は紙を戻した。「静かで、暖かく、良い紙と良い明かりのある場所だ。読めるというだけで飯が食える。囲いのなかは存外わるくないぞ」
囲い。その一語を、男はさらりと使った。隠す気もないらしい。
僕は、写しの手を止めなかった。止めれば、心が動いたと知れる。
「僕は、下働きです」できるだけ平らに言った。「字が読めるのは、村で覚えただけのことで」
「村で」男は薄く笑った。「その村で、格子の向こうの字まで覚えたか」
心の臓が、ひとつ大きく鳴った。格子の向こう。あの古い字のことを、この男は知っている。僕がそれを見たことも、たぶん。帳面に書きとめる目は、水場の噂などではない、もっと奥まで見ていた。
「……模様なら、きれいだと思いました」前と同じ逃げを、もう一度使った。
男は、それ以上は押さなかった。押す必要がないと思ったのかもしれない。
「急ぐ話じゃない」上着の埃を払うしぐさをして、背を向ける。「気が向いたら、モス殿に言え。話は通しておく」
去り際、ふと足を止めた。
「才のある子は、たいてい囲われて、幸せになる。表から消えるのを不幸だと決めるのは、外の人間だけだ」
それだけ言って、長机のあいだを抜けていった。
男の姿が扉の外へ消えてから、モスがぽつりと言った。
「あの手の誘いは、断っても角が立つ。乗っても、な」筆を置かないまま。「うちで読み手をしているぶんには、まだ表にいられる。籍が入れば、なおさらだ。……焦って良い返事をするなよ」
庇ってくれているのか院の宝を取られたくないだけか。どちらとも取れた。たぶん、両方だ。
僕は写しの続きへ戻った。城の奥、封じの蔵。その一行を今の字で丁寧に写しながら、思った。
あの娘の言ったとおりだった。変わった才の子は、学園の話より先に、どこかへ囲われて表から消える。使いつぶされる。半ばは脅しだと思っていた。だが今日、囲いの手は柔らかい声で、良い紙と暖かい部屋を差し出しながら、たしかに僕の肩へ伸びてきた。
読めるというのは、宝だ。宝は、欲しがられる。欲しがられれば、囲われる。門へ近づくというのは、こういう手が一つずつ増えていくことでもあるらしかった。
その夜、物置に戻っても、あの男の声が耳に残っていた。
囲いのなかは暖かいという。良い紙と、良い明かり。読めるというだけで飯が食える。……正直、心が動かなかったと言えば嘘になる。灰の村を出てから、暖かい部屋も、減りを気にせず使える明かりも僕には縁のないものだった。
だが、暖かい部屋で、この稽古は続けられない。誰かの目のある場所で、火は流せない。塔にも、たぶん潜れなくなる。
どちらが幸せか。あの男に言わせれば、決まっているのだろう。僕には、まだ決められなかった。
ただ、今夜のところは。
蝋燭を一本だけ立て、消えぎわの炎のまん中へ、芯を流した。考えるより、先に。指が、組む。……七度に一度は、まだ外す。それでも、当たったときの速さは、たしかに前と違った。
これを手放すのは、まだ早い。それだけは、暗がりのなかで、はっきりしていた。
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