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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
学園編

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第90話「氷の手」

 塔通いは、それから幾日か続いた。

 夜明け前に潜り、空になるまで振って、朝の水汲みまでに戻る。下働きの誰にも気づかれていない。年かさの男に「近ごろ、朝が早いな」と一度だけ言われたが、「眠れないだけです」で流した。半分は本当だった。

 妙なことに気づいたのは幾日か経ってからだ。

 空になるまでが、前より少し延びている。同じだけ振っても掌の芯が尽きるのが遅い。器そのものが、少し広がったのかもしれない。魔力を空まで使い切るのは、たいていの者が避ける。尽きれば倦怠で動けなくなる――誰もがそう心得ている。だが僕は毎朝、その動けなくなるところまで使い切り、また満たしてを繰り返していた。おまけに、空になった後も剣だけは振れるよう、体を慣らしていた。底を叩き続けているうちに、底のほうが、少しずつ遠のいていく。そんな手応えが、たしかにあった。


 その朝は、いつもより一つ深い階へ下りてみた。

 空に近い掌のまま下りるのは、無茶だとわかっていた。だが、魔力の尽きたその先で、どこまで動けるのか。それを確かめたい気持ちのほうが勝った。

 二層は、一層より天井が低く、空気が濁っていた。通路の奥から、重い足音が響いてくる。

 現れたのは、岩を背負ったような大きな魔物だった。牛ほどもある。厚い甲殻に覆われ、二本の太い前肢で地を掻く。一層の蝙蝠とは格が違う。名は知らないが、C級の下のほうの札で、こんな絵を見た気がする。

 僕の掌は、もう火の一つも絞れない。

 剣を抜いた。

 ――ちょうどいい。

 魔力が空のとき、どこまでやれるか。試すには、おあつらえ向きの相手だった。

 突進を半歩だけ横へいなす。甲殻の重みが、風を巻いて頬を掠める。回り込んで、前肢の付け根の殻の薄い継ぎ目へ剣を差し込む。ボルツの型だ。魔力に頼らない、ただの剣と体の運び。一撃では倒れない。何度もいなし、差し、跳びのく。息が上がる。倦怠が鉛のように手足へ絡む。それでも、体は止まらなかった。空になっても振れるよう鍛えた、その一点だけが、今の僕を立たせていた。

 一度、足がもつれた。倦怠が視界の端を黒く滲ませる。前肢の一振りが肩を掠め、革の上着を裂いた。あと半歩踏み込みが遅ければ、頭ごと持っていかれていた。魔力があれば、風で退がるのも火で怯ませるのも、たやすい。それが、できない。今の僕にあるのは、剣一本と鍛えた体だけだ。だが――それだけでも、ここまでは届く。灰の村を出たときの僕なら、この一匹に、間違いなく殺されていた。

 最後は、のけぞった首の下、鱗の切れ目へ渾身の一突き。魔物が、地響きを立てて崩れ落ちた。

 剣を地に突き、その柄へ体を預けて僕は肩で息をした。魔力は空。体も限界に近い。だが、倒せた。魔法を一つも使わずに。


 背後で、かつん、と硬い足音がした。

 振り返ると、通路の入口に一人の学生が立っていた。

 仕立てのいい、けれど飾りのない外套。腰に、細い剣。冒険者ではない、学舎の生徒だ。歳は僕と変わらない。氷のように静かな目が、崩れた魔物と剣に寄りかかった僕とを、順に見た。

 「――魔法なしで、それを」

 低い声だった。感心でも蔑みでもない。ただ事実を確かめるような響きだ。

 僕が答える前に、通路の奥から、二匹目の重い足音が来た。

 学生は僕を追い越すように前へ出た。片手を無造作に上げる。詠唱は、聞こえなかった。

 空気が、ひと呼吸で凍りついた。

 現れかけた岩背の魔物が、前肢を上げたその形のまま、白い霜に包まれて止まる。次の瞬間、無数の氷の棘が、内側から殻を突き破った。魔物は、声も上げずに砕けた。

 速い。無駄がない。詠唱もなく、あれだけの氷を、狙った一点に。僕が剣一本で息を切らして一匹を倒す間に、この男は、指一本で二匹目を氷の彫像に変えた。

 その一瞬、僕の目は癖で氷の流れを追おうとしていた。式の下の、どう凍らせているかの筋道を。だが速すぎた。火や風なら辛うじて拾える流れの糸口が、氷では影も掴めない。読めない。読める僕が、読めない。それが、妙に胸へ刺さった。

 あの日、一層の奥で見た氷の罅。あれを残したのは、この男だったのか。


 学生は、砕けた氷の欠片を一瞥し、それから僕へ目を戻した。

 「下働きの身なりで、この階に一人。しかも魔法を使わない」その目が、少しだけ細くなる。「妙な取り合わせだ。何を稽古している」

 核心だった。魔法を使わないのではない。使えないふりでも、隠しているのでもなく――今はただ、空なだけだ。だがそれをこの男に説く義理はない。

 「体を、鈍らせないだけです」

 僕は剣を鞘に戻した。それ以上は言わない。嘘ではない。半分は。

 男はしばらく僕を見ていた。値踏みではない。分類できないものを前にした、研究者じみた目だった。

 「……ふうん」

 それだけ言って興味をなくしたように背を向けた。去り際に、一度だけ足を止める。

 「無理はするな。この階で魔力が空なら、次は死ぬ」

 案じる声ではなかった。ただの事実だった。男の姿が、濁った空気の奥へ消えていく。


 僕は、崩れた二匹の魔物を見比べた。

 剣で、息を切らして倒した一匹。指一本で、氷の像に変えられた一匹。同じ魔物がこんなにも違う終わり方をする。あれが、噂に聞いた"五指"の一人なのかもしれない。確かめようはない。ただ、学舎のいちばん上に近いところにいる力だと、それだけはわかった。

 悔しさは、あった。だが、それだけではなかった。

 あの氷を、いつか読めるだろうか、と思った。あの無駄のなさ、あの速さ。式の下にあるはずの"どう流すか"を、僕の目で拾って、僕の手で組み直せたら。火でも風でもない、あの冷たい流れも、いつかは。

 今は、届かない。だが、届かないものが見えているのは、悪いことではなかった。物置の暗がりで蝋燭のまん中を狙っていたころ、僕は目指す先の形さえ知らなかった。今は知っている。あの氷の速さ、あの無詠唱が、僕の行く道のずっと先に立っている。追いつくのは途方もなく遠い。それでも、道の先に灯りが見えるというだけで、足は前へ出た。

 掌は、まだ空のままだ。倦怠がじわりと骨へ染みる。それでも僕は、剣を支えに、石段のほうへ歩きだした。今日も、底を一つ叩いた。明日は、もう少し深くまで行ける気がした。

 地上の朝が、石段の上で白く待っていた。

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