第89話「隠さずに」
十日目は、夜が明ける前に宿舎を出た。
下働きの朝の仕事が始まるまでには、まだ間がある。そのあいだだけが、僕の時間だ。街の外れ、崩れかけた城壁の切れ目にその塔は建っていた。学舎の生徒が実地の稽古に使う、浅い迷宮だという。
門番の詰所で、擦り切れたB級の札を見せた。門番は眠そうな目で札と僕の顔を見比べ、粗布の身なりに少し眉を寄せたが、格が格だ。何も言わずに横木を上げた。冒険者の札は、身分を訊かない。下働きだろうと、B級はB級だった。
塔の口は、地の底へ下る石段だった。灯りの魔法の玉が壁のところどころで青白く灯っている。ひやりとした空気が、下から昇ってくる。
浅い層だ。学生でも死なない程度の弱い魔物しか出ないと聞いた。それでいい。僕が欲しいのは、強い敵ではない。誰も見ていない、という一点だけだ。
一層めは、拍子抜けするほど静かだった。
湿った石の通路をしばらく歩く。やがて、天井から羽ばたきが降ってきた。コウモリに似た、けれど二回りは大きい魔物だ。革の翼で、黒い塊になって襲いかかってくる。
剣を抜くまでもなかった。身を低くして一匹目の突進を肩でいなす。ボルツに叩き込まれた体さばきだ。二匹目は、柄で打ち落とした。数は多いが、一匹ずつはどうということもない。
だが、今日はそれで終わりにしない。
僕は剣を鞘に戻した。かわりに、掌へ魔力を巡らせる。
人目がない。それを確かめるように、一度深く息を吸った。物置では、いつもここで手が止まった。誰かが来るかもしれない。火が漏れるかもしれない。その怯えがいつも指先を縮ませていた。
ここには、それがない。
――やれる。
羽ばたく黒い塊へ、風を起こす。
これまでは、まっすぐ前へ投げるだけだった。当たればいいほうで、たいていは的の手前でほどけて散った。今日は違うやり方を試す。蝋燭で覚えた、あの感触だ。先を押さない。後ろの端から送る。
一匹が、右へ逸れて飛ぶ。その進む先へ、風の帯を後ろから流し込むように押し出した。
風が、曲がった。
まっすぐ投げた風ではない。動く獲物の先へ、追いすがるように回り込んでその翼を横から叩いた。魔物が体勢を崩し、壁にぶつかって落ちる。
掌がじんと熱かった。今のは、蝋燭のまん中を消すのと同じことだ。動く的に向けたほうが、かえって掴めた。止まった炎より、動くものを追うほうが、風の後ろの端を意識しやすい。物置の三度が、ここでは続けて取れる。二匹、三匹と続けて落とした。曲げるたび、風の後ろの端の感触が指の奥へ沈んでいく。物置の蝋燭では、ひと晩かけても掴めなかったものだ。ここでは半刻で手に馴染む。動く的と、遠慮のいらない出力。その二つが揃うだけで、こんなにも違った。
火も、遠慮なく出した。
絞った青い火を、殻の厚い甲虫じみた魔物の関節の継ぎ目へ一点で打ち込む。物置では指の長さぶんしか伸ばせなかったそれを、今日は腕の長さまで届かせて、殻を貫いた。焦げる匂いが通路にこもる。誰にも見せられなかったあの細く鋭い火が、ここでは咎める者もなく吠えた。
それから、身体強化に風を重ねた。
ずっと前に、まぐれで何度か噛み合ったきりの合わせ技だ。脚へ力を集めて跳ぶ、その踏み切りの瞬間に背から風で押す。何度も転んだ。方向がずれて壁にぶつかり、燃費だけを食った。それでも、繰り返せる場所があるというだけで、体は少しずつ覚えていく。十に一度が、五に一度になり、三に一度になる。跳んだ先の天井の梁へ、はじめて狙って手が届いたとき、僕は暗がりでひとり、声を漏らして笑っていた。
剣にも、火を乗せてみた。
斬りつけるその刃に、魔力を薄く這わせる。ボルツが遺した剣の型に、原初式の火を寄せる。刃がうっすらと熱を帯び、振り下ろすと、甲虫の殻がただの鉄よりも深く裂けた。魔法剣。ずっと萌芽のままだった技だ。だが数度も振れば掌はもう空に近く、火を乗せた刃は三太刀と続かない。まだ、これで戦えるとは、とても言えなかった。
うまくいかないことも、いくらでもあった。火と風を同時に組もうとして、風のほうが崩れ、火だけが的外れに散る。追い風を強く押しすぎて、跳んだ体が横ざまに壁へ叩きつけられる。息が上がり、視界がちらつく。魔力の底は、思っていたより浅かった。組み合わせるたびに、燃費は跳ね上がる。頭で分かっていることと、体が続くことの間には、まだ深い溝がある。
それでも、と思う。溝の在り処が見えているだけ、物置よりずっとましだった。
おかしなものだ。
人前では、火と風を二つ持つだけの、ありふれた魔法使いの顔をしている。ほんとうの僕は、何も持たないはずの僕は、こうして地の底の暗がりでしか、そのままの形でいられない。灯りの届かない場所でだけ、隠さずに済む。村を焼かれ、名を捨ててから、ずっとそうしてきた。人のいるところでは小さくなり、いないところで、こっそり自分を確かめる。塔の暗がりは、そのいちばん奥まった部屋のようなものだった。
寂しい話だ。だが、悪い気分ではなかった。
息が切れ、掌の芯が空に近くなるまで、僕は振り続けた。火。風。流す。重ねる。組み合わせるほどに燃費は倍にも三倍にもなって、すぐ底をつく。まだ、何ひとつ物になっていない。それでも、伸び方が、物置の指の幅とはくらべものにならなかった。
一層の奥の広間まで来て、僕は足を止めた。
床に真新しい焦げ跡があった。僕のものではない。氷で凍らせて砕いたような、白い罅も走っている。ついさっき、誰かがここで魔物を狩った跡だ。それも、僕よりずっと鮮やかに無駄がない。
浅い層だと侮っていた。だが、この塔を稽古場にしているのは、僕だけではない。学舎の、選りすぐりの生徒たち。五指のひとりはA級だと、あの日の学生が言っていた。同じ暗がりで、僕がやっと三に一度を掴んでいる間に、あの手のものは、涼しい顔で罅を残していく。
上には上。ここでも、それは変わらない。
だが今日の僕は、その焦げ跡を見ても前ほど怯まなかった。追いつくための場所を、やっと見つけたからだ。
掌の熱が引くのを待って、僕は石段を上りはじめた。朝の水汲みまでには、戻らなければならない。下働きの顔に戻って、桶を提げる。それでいい。夜が明ける前のこの一刻が、僕の炉だ。
明日も来る。明後日も。この塔の暗がりで、隠さずに、振れるだけ振る。物置の指の幅を、ここで、腕の長さに変えていく。
石段の上に、朝の白い光が細く差していた。
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