第88話「走れる場所」
九日目の昼下がり、書庫で崩し字の棚に向かっていると、一人の研究生が入ってきた。見覚えのある顔だった。いつか、風の上級の教本の余白を睨んで、書き込みが読めないと苛立っていた、あの若い男だ。風しか使えないと、自分で言っていた。
「下働きの、レイというのは」
顔を上げると、相手は僕を上から下まで見た。あのときは僕の顔になど目もくれなかった。それが今日は、値踏みするように見ている。
「あんたか。あの崩し字の棚を片づけたのは」男は、少しばつが悪そうに言った。「……モス先生に言ったんだ。あの棚を戻せる下働きがいる、と。読める手が要るなら、と思ってな」
だから、あの日モス先生が来たのか。僕を試しに来た、あの訪ねの下地を作ったのは、この男だったわけだ。口では隠せても、片づいた棚のほうは、隠せなかった。
「モス先生が呼んでる。研究院まで来い」
房の色の違う、先日僕を試した男の名がようやく分かった。
司書のほうを見ると、老人は手を止めずに顎だけで行けと示した。止めはしない。ただ目の端に、案じるような色があった。
研究院は、書庫とは何から何まで違う場所だった。
高い窓から光が差し込み、長机がいくつも並んでいる。開かれた古い本、写しかけの紙、割れた石板の破片、見たことのない道具が、机の上に雑然と載っていた。数人の研究者がそれぞれの机に屈み込んでいる。誰かが低く議論している。誰かが黙って筆を走らせる。知が音を立てて動いている場所だった。
その一角に、モスがいた。働き盛りを過ぎたくらいの歳だろうか。指の節に、古いインクの染みが消えずに残っている。老いてはいないが、若くもない。長く紙とだけ付き合ってきた者の手だった。
「来たか」モスは僕を手招きした。周りの研究者がちらとこちらを見て、下働きの粗布に気づき、すぐ興味をなくして手元へ戻った。
モスの机には、古い綴じ本が一冊、開かれて置かれていた。紙が茶に灼け、崩れた字がびっしり並んでいる。この前の帳面より、ずっと崩しがひどい。
「これだ」モスはその頁を指で叩いた。「三代前の、学舎の蔵書録の写しだ。どこに何を納めたか、それが書いてある。……はずなんだが、誰も読めん」
「秀才が、揃っていてもですか」
つい、口に出た。モスは鼻を鳴らした。
「秀才ほど読めん」自嘲まじりの笑いだった。「ここの連中は、整った字しか習っておらん。今の学舎で使う、判で押したようなきれいな字だ。だがこいつを書いたのは、三代前の書役だ。字を崩すのが当たり前だった時代のな。急いで、省いて、自分にだけ分かるように崩す。書いた本人の癖を掴まなけりゃ、一文字も追えん。魔法の式は解けても、死んだ書役の癖まで解こうとする者は、ここにはおらん」
僕には、その感覚が分かった。
灰の村では、字を読める者が僕しかいなかった。年寄りの手紙も、証文も、崩れた走り書きばかりだ。読めなければ、暮らしが回らない。だから書いた者の手の癖を、指でなぞるように覚えた。谷の男にも言われた。字は書いた奴の癖を掴めば、半分は読めたも同じだ、と。整った字を大勢で読むのと、崩れた癖字を独りで解くのは、似て非なる技だった。学舎の秀才は前者を極め、僕は後者ばかりを生きるために磨いてきた。同じ「字が読める」でも、中身がまったく違う。
「読めるか」
僕は頁に目を落とした。
崩れてはいる。だが、読めない崩しではなかった。二、三行で書役の癖を掴む。あとは、その癖のとおりに追うだけだ。
「北の棟の三番の棚。詩集と、古い法令の写し」読める行を読めるとおりに口にした。「次の頁は、南の棟。……ここは虫が食っていて、途中から読めません」
モスの手が止まった。周りの研究者の筆の音も止まっていた。
「まぐれだ」
別の若い研究生の一人が、口の端で言った。「崩し字なんて、それらしく読み上げれば確かめようがない。下働きが、たまたま――」
「北の棟の三番に、詩集があるかどうか。行って確かめてこい」モスは顔も上げずに言った。「あるなら、こいつの読みは正しい。ないなら、お前の言うとおりだ」
若い研究生は口をつぐんだ。行こうとはしなかった。行けば負けるほうに賭けることになると、分かっていたのだろう。
モスはしばらく僕を見ていた。値踏みの目がこの前よりずっと深くなっている。
やがて机の下から別の一枚を取り出した。
薄い、皮に近い紙だった。端が焦げている。一目で背筋が強張った。そこに並んでいるのは崩し字ではない。渦。枝分かれ。螺旋。格子の向こうと同じ、あの古い字だ。首飾りの、あの形だった。
「ついでだ。こっちはどうだ」モスの声は軽かった。軽すぎた。「うちの誰も読めん。崩し字ですらない。お前さんの目に、何か映るか」
これは、崩し字とはわけが違う。崩し字は、癖さえ掴めば元は今と同じ字だ。だがこれは、元からして違う。今のどの文字とも繋がらない。読めると言えば、僕は「崩し字の読める下働き」から、「誰にも読めない字を読む何か」に変わってしまう。谷の男の声が鳴った。読めた、と口に出すな。
じっと紙を見る。読める。集める。散らす。閉じる。断片が意味を結びかける。だが僕は、その結び目から意識を引き剥がした。
「……模様のようです」そう言った。「きれいですが、字なのかどうかも、僕には」
嘘には、半分だけ本当を混ぜる。きれいだ、というのは本当だった。
モスは、ふん、と鼻を鳴らした。信じたのか、信じないふりをしてくれたのか、その顔からは読めない。紙をそっと机の下へ戻す。値の張るものをしまう手つきだった。
「まあいい。崩し字が読めるだけでも、うちには宝だ」そう言って、付け足した。「季節が変わるのを待つ必要もないかもしれん。読める手が要るときに、書庫から呼ぶ。院の仕事を手伝え。籍の話は、それを見てからだ」
下働きから、読み手へ。片足を向こう側へ、と下働きたちは言った。その片足が今、もう半歩、向こうへ滑った。
礼を言って研究院を出ようとしたとき、入り口の近くで一人の男とすれ違った。
研究者ではない。地味だが、仕立てのいい上着を着ている。院の者とも学生とも違う。その男はすれ違いざま僕の顔をほんの一瞬だけ確かめるように見た。値踏みでも蔑みでもない。もっと静かな、帳面に書きとめるような目だった。
すぐにそらされた。男はモスのほうへ歩いていく。
気のせいかもしれない。だがあの娘の声がよみがえった。変わった才の子は、学園の話より先に、どこかへ囲われて表から消える。使いつぶされる。
読める、というのは宝だ。宝は欲しがられ、欲しがられれば囲われる。門に近づくというのは、そういう場所へ自分から歩いていくことでもあった。
中庭を抜けるとき、革鎧を着けた学生の一団とすれ違った。
背に剣を負い、腰に回復薬の瓶を提げている。学舎の生徒でありながら、冒険者の身なりだ。ここでは珍しくもないらしい。腕に覚えのある者ほど、実地で鍛えるために迷宮へ潜る。街の外れの、生徒の実習に使う浅い塔だと聞いた。話の端に、等級が混じった。あいつはもうB級だとか、五指のひとりはA級らしいとか。学生でそれだ。上には上が、ここには当たり前のようにいる。
僕の冒険者の札は、B級だ。剣と体術で押し上げて、魔法はぜんぶ伏せた、あのB級。等級だけなら、いますれ違った学生たちと並ぶ。五指に入るというA級には、まだ届かないにしても。
その一団の背を見送りながら、僕はひとつはっきりと気づいた。
札の格は、体で稼いだものだ。剣と、体術と、人前に出せる力で。だが肝心の原初式のほうは、いまだ物置の蝋燭で、十のうち三度だ。あれでは遅い。遅すぎる。人目を避け、息を殺し、指の幅ずつ。体はB級の顔をして、中身の魔法は、まだそこに追いついていない。原初式は、組み合わせて、重ねて、初めて活きる。追い風を身体に添え、火に風を巻き、流して狙いをつける。だがそれを丸ごと試す場所が、僕にはなかった。物置は狭すぎる。誰かの目が、いつもすぐそばにある。
迷宮なら、と思った。
深い層でなくていい。誰も見ていない場所で、火も風も、流すのも重ねるのも、思うさま振れる場所。壊しても燃やしても、咎める者のいない場所。B級の札は、こういうときのためにこそ、僕の懐にある。
読み手として、僕は向こう側へ半歩滑った。それとは別に、もう半歩、自分の足で踏み出せる場所が、たしかにあった。
その夜、僕は蝋燭を立てなかった。かわりに擦り切れかけた冒険者の札を、久しぶりに灯りにかざした。Bの一字が、鈍く光る。隠れて指の幅ずつ広げる稽古は、もう終わりにする。明日、街の外れの塔のことを、詳しく聞いてみよう。
走れる場所へ、行く。
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