第87話「向こう側」
八日目の朝は、水場の空気がいつもと違った。
下働きが数人、桶を並べて水を汲んでいる。僕が近づくと話し声がふっと途切れた。誰もこちらを見ない。見ないようにしている、というほうが近い。昨日まではすれ違えば誰かが「おう」くらいは言った。今日はそれがなかった。
昨日の中庭のことが、もう回っている。
噂は水より速い。前にそう思ったばかりだった。下働きが入学生の令嬢に名を呼ばれて言い返していた。しかもあの火使いの嬢さんに。それだけで話の種にはじゅうぶんだった。
台車を押してきた年かさの下働きが、僕の隣で足を止めた。
「派手にやったな」
棘はない。だが、いつもの声を落とした忠告でもなかった。もっと乾いた、突き放すような言い方だ。
「言ったろう。目立つやつはいなくなる。上に引かれるか、疎まれて弾かれるか。どっちにしろ、ここからは消える」
「消えない」
僕がそう言うと、男は息だけで笑った。
「そう思ってるやつほど消えるんだよ」
台車を押して行ってしまった。呼び止める言葉は僕にはなかった。弁解したところで昨日のことがなくなるわけではない。あの娘が僕を見つけたのは事実だ。研究院の男に目をつけられたのも、司書に本を任されているのも、ぜんぶ事実だった。この人たちの目に、僕はもう片足を向こう側へ置いた人間に映っている。
水を汲んで詰所へ運ぶ。
誰も口をきかない一日は、慣れているはずだった。灰の村を出てからずっと、僕はそうやって歩いてきた。名を訊かれない土地を選び、顔を覚えられないうちに次へ移る。独りでいることに痛みはなかった。とうに痛まないようになっていた。
なのに今日は、少しだけ痛んだ。
たぶんこの八日のあいだに、僕は気づかないうちに、この人たちのそばへほんの少し足を置いていた。年かさの忠告も、水場の「おう」の一言も、粗い輪のいちばん端のほうに。抜けるときになって、はじめてそこに立っていたと気づく。いつもそうだ。失くしてから、あったことを知る。
薪割りの手伝いに回されても、誰も僕に話しかけなかった。それでも、誰かが運びかけてやめた束を、僕は黙って積み直した。礼を言う者はいないし、僕も待っていない。手を動かしているあいだだけは、輪の外にいることを、少し忘れていられた。
昼餉のとき、いつもの土間の隅に腰を下ろすと、隣で椀を使っていた若い下働きが、身を拳ひとつぶんだけ離した。ほんのわずかな動きだ。気のせいだと言われれば、それまでの距離だった。だが僕には分かった。昨日まで、その拳ひとつはそこになかった。
誰も意地悪をしているわけではない。ただ線が引かれただけだ。向こう側の人間と、こちら側の人間のあいだに。線は声を荒げずに引かれる。椀ひとつぶん身を寄せない。それだけでじゅうぶんに伝わってくる。おまえはもう、ここのものではない。
僕は黙って冷えた汁を飲んだ。味は昨日と同じはずだった。
昼過ぎ、書庫に入ると、司書が奥から僕を手招きした。
机の上に傷んだ本の束が積んである。いつもの仕事だ。だが老人は、すぐには札挟みを渡さなかった。
「外が騒がしいらしいな」
噂はこの寡黙な老人の耳にも届いていた。僕は黙ってうなずくだけにした。
「言っておくが」老人は背表紙の埃を指で払った。「ここで人の読めない字が読めるというのは、外の水場で嬢さんに名を呼ばれるのとは、わけが違う。あっちは噂で済む。こっちは――」
言いさして、老人は格子のほうへちらと目をやった。鎖の巻かれた棚。背いっぱいに彫り込まれた、読めない古い文字。
「こっちは、済まないことがある」
その声には、脅しではない、もっと古い疲れのようなものがあった。長いこと、読めないものを読めぬまま仕舞ってきた者の疲れだ。
「格子の向こうは」僕は思いきって訊いた。「誰のものなんですか」
老人はしばらく黙っていた。答えないかと思った。
「あれは、うちのものじゃない」やがてそう言った。「学舎が預かっているだけだ。ほんとうの持ち主は、もっと上にいる。読む許しを出すのも、しまう場所を決めるのも、ぜんぶ、もっと上だ」
もっと上。オズが言っていた場所を思い出した。王城の奥。鍵のかかった蔵。読めるべきでない者から遠ざけるための蔵だ。
「その、もっと上の人たちは」僕は訊いた。「あの字が読めるんですか」
老人は僕を見た。今日はじめて、まっすぐに。
「さあな。だが、あれを読める者がそこらにいるなら」老人は格子を顎でしゃくった。「こいつらが、こんなところで埃をかぶってるわけがなかろう」
それだけ言って、仕事に戻った。
その言葉が、午後のあいだずっと胸に残った。
あの古い字を読める者が、いない。学者にも、宮廷の魔導師にも、たぶん王にも。字を習い、術を修めた者はいくらでもいる。だが、格子の向こうのあれだけは、誰の手にも負えない。だからしまう。しまったまま、誰も開けない。上へ行くほど鍵は増えて、読める手は減っていく。おかしな造りだ。宝をいちばん厳重に、いちばん読めない場所へ隠している。
僕は、読める。
現代の字はもちろん、崩れた字も、あの格子の古い字も。学舎じゅうの秀才が匙を投げる類の字を、下働きの粗布を着た僕が読んでしまう。片足を向こう側へ置いた、と下働きたちは言った。けれど僕がほんとうに行きたい向こう側は、あの人たちの思うところよりずっと遠い。あの格子の、もっと奥。もっと上。
その夜、物置で、僕は蝋燭を灯さなかった。
稽古をする気になれなかった。膝を抱えて、外套の下の首飾りを指で探る。円のなかの螺旋。その空白の一文字。あれと同じ形の文字が、昼の格子の向こうにも彫られていた。読める者がいたらあんなところにはいない。老人はそう言った。
もし、そうなら。
母の一族の名も、守る民の本当の名も、この国のどこか、いちばん読めない場所に、読まれないまま眠っている。誰にも読めないから、誰も手を出さない。手を出さないから、消えもしない。ただ埃をかぶって待っている。読める手が来るのを。
水場の輪から、少しはぐれた。かわりに遠くの戸が、少しだけ近くなった。それが釣り合うのかどうか、正直、分からなかった。
分からないまま、僕は首飾りを握って横になった。
天井の闇に、水場の連中の背中が浮かんでは消えた。年かさの言葉も。目立つやつは、いなくなる。たぶん、当たっている。ただ、どっちへ消えるのかは、あの人にも僕にも、まだ分からないだけだ。
明日も、水場では誰も「おう」とは言わないだろう。それでも桶は運ぶし、本は仕分ける。格子の手前の埃をまた払う。ただそれだけのことを続けていく。いつか届くとも、届かないとも、今は思わないことにして。
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