第86話「見つかる」
七日目。午前の水汲みを終え、桶を返しに回廊を抜けようとしたときだった。
中庭のほうから、火の匂いがした。
乾いた、迷いのない火だ。焦げ臭さがない。ひと息で立ってひと息で消える。この学舎に来た日から僕はこの匂いを避けてきた。どこにあるのか、誰のものか、最初から分かっていた気がする。分かっていたから近づかなかった。
今日は、両手が桶で塞がっていた。回廊のほかに、返しに行く道がなかった。
中庭では、入学生が数人、火の的を立てて練習していた。そのまん中に、あの火があった。
赤い、まっすぐな火。的の中心だけを的確に灼いて、すっと引く。周りの誰よりも澄んでいた。撃った本人は澄ました顔で乱れてもいない髪を払っている。
見ないふりで、僕は回廊の陰を早足で抜けようとした。
「――あんた」
声が、背中に刺さった。
桶の水が縁から少しこぼれた。振り向かなくても、誰かは分かった。それでも振り向いた。
的のほうから、彼女がこちらへ来る。練習を放り出して、火を撃った手のまま。目を丸くして、それから眉を吊り上げていく。見間違いかを確かめる顔から、見間違いじゃないと決める顔へ、ほんの数歩で変わった。
「あんた……なんで、こんなところに」
「人違いだ」
「その声で人違いは通らないでしょ。図々しいにも程があるわよ」
しばらく会わないうちに、詰め寄り方は少しも変わっていなかった。
「その格好、なに。桶なんか提げて」彼女は僕を上から下まで眺めて、それが気に入らないという顔をした。それから何かを思い出したように、眉の間へ皺を寄せた。「……領都。あんた、あの催しには、行ったの」
催し。領都の。研究院が地方を回るという、彼女が時と場所を握らせてくれた道だ。僕はそこへ行った。行って、そして――
「行った」
「行ったのに、こんなところで桶を提げてるわけ?」声が跳ねて、それから彼女はふと黙った。何かに思い当たる顔だった。「……待って。領都、竜が出たって聞いた。祭りが、めちゃくちゃになったって。まさか、あんた」
「居合わせた」
彼女の顔から、怒りが半分抜けた。抜けたぶんだけ、別の色が差した。うまく言えないという顔で口を開きかけて、閉じる。
「怪我は」
短く、それだけ訊いた。突っかかるのでも、詰るのでもない声だった。
「かすり傷だ。もう塞がった」
「……そう」彼女は目を逸らした。逸らしたのを取り繕うように、早口へ戻る。「なら、いいわよ。べつに、心配なんかしてないから。ただ、わたしが教えた道が竜に潰されたんじゃ、寝覚めが悪いってだけ」
寝覚めが悪い。前にも、同じことを言われた気がした。
どうやって王都まで来たのか、彼女は訊きたそうだった。催しは消えた。研究院の目に留まる道は、竜が焼いた。それなのに、僕はこの学舎にいる。訊かれても、答えられることは少ない。兄のことは言えない。推薦状を書いた人の名も。
「縁があって、下働きに置いてもらってる」
「縁」彼女は鼻で笑おうとして、しきれなかった。「あんたに、そんな都合のいい縁があるとは思えないんだけど」
当たっていた。都合はよくない。昔、庭の隅で本を拾い読みしていた子どもが、別の庭の隅で桶を提げているだけだ。場所が変わった。拾うものが変わった。それだけのことだった。
僕は、彼女が撃った的をちらと見た。焦げ跡は中心の一点だけで、周りの藁は焦げてもいない。狙ったところへ狙っただけ。きれいな仕事だった。あの正確さを、彼女は詠唱ひとつで、迷いなく置いてみせる。生まれついた流れが、そのまま火に合っている者の火だ。
あの狙いの精度が、僕には手強い。同じことを、僕は夜、蝋燭のまん中の一本だけを消す稽古で探っている。十のうちやっと二度だ。式に乗せて済む者と、毎度いちから手で組む者。すぐ隣に立つと、その差がよく見える。羨ましくないと言えば嘘になった。
それでも、と思う。乗せるだけの者には、乗せる台のない場所へは行けない。僕の行きたいところは、たぶんそっちだ。
彼女は一歩、詰めてきた。声がさらに低くなる。
「火と、風。それに今度は、竜のときの、細い火を使った男の噂。あんた、いつまで気のせいで通す気」
「気のせいだ」
「二回どころじゃ、なくなってるのよ。もう」
言いかけて、彼女は自分ではっとした。すぐ後ろに的の列がある。入学生が耳を澄ましている。無属性という言葉が、喉の先まで来て止まったのが分かった。ここでそれを口にされるのが、いちばんまずい。彼女はそれを知っていて呑んだ。
追い回されていたころより、口の閉じ方が上手くなっている。学舎の水が少し合っているのかもしれない。
「……とにかく」彼女は仕切り直すように腕を組んだ。「下働きなんて、あんたには似合わない。似合わないのに、しっくり来てるのが、余計に腹が立つ」
腹を立てられても困る。
「わたしは正式に入った。あんたは、桶。おかしいでしょ、これ」おかしい、と言いながら、彼女の目は笑っていなかった。むしろ、どこか痛そうだった。上に立った者が下に置かれた相手を見おろして覚える。居心地の悪さ。それを隠すのが、この娘は昔から下手だった。
「気にするな」
「気にするに決まってるでしょ」
周りで、入学生の何人かがこちらを見ていた。育ちのいい顔ぶれだ。彼らの目に映っているのは、優等生に叱られている下働きの姿でしかない。何をしでかしたのかと値踏みし、すぐに興味をなくす。僕という人間は、その程度の重さで通り過ぎる。それでよかった。透けているほうが都合はいい。
なのに、この娘の目だけが、僕を透かしてくれない。まっすぐ、人として見てくる。それがこんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。
的のほうから、彼女を呼ぶ声がした。次の組の番らしい。
彼女は振り返って「今行く」と返し、それから僕に向き直った。指を一本、突きつけてくる。
「いい、覚えときなさい。あんたを、そこに置いておく気はないから。火と風は、時間をかけて、わたしが自分で暴く。そのためにも――こんな隅で埃をかぶってていい人じゃないでしょ。あんたは」
最後のところだけ、少し早口だった。言い終えて、返事を待たずに的のほうへ駆けていく。赤い火がまた一本、まっすぐ立って、まっすぐ消えた。
僕は桶を提げ直した。水が半分になっていた。
昨日、房の色の男が言った。研究院に、読める者の居場所はある、と。門の内側に、いちばん近い場所だ。そして今、その門の内側に、あの娘がもう立っている。僕がいちばん見られたくない火を知っている娘が。
避けたい相手と、行きたい場所が、またひとつに重なっていた。ずっと、そうだ。逃げる理由と、進む理由は、いつも同じ一人か、同じ一枚の戸の上で背中を合わせている。
回廊の陰で、僕は一つ気づいた。さっきのやりとりのあいだ、僕は一度も、あの娘の名を呼ばなかった。呼ぼうとして、呼ばずに済ませた。呼んでしまえば、隅にいるくせに、近づきすぎる気がした。
桶の水を、こぼさないように提げて歩く。火の匂いが、背中でまだ少し温かかった。避けてきたものに、とうとう見つかった。見つかったのに、少しも嫌ではない。それが自分でも不思議だった。
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