第85話「見込み」
六日目も、朝から書庫だった。傷んだ棚の仕分けは、まだ半分も終わっていない。
昼近く、司書がいつもの無言ではなく僕を手招きした。奥の作業机のそばに、見慣れない男が立っている。
研究生ではなかった。もう少し年かさで、身なりが整っている。襟の房が研究生のものとは色が違う。研究院の人間だ、と直感した。
「これが、噂の」男は僕を上から下まで眺めた。品定めの目だ。「傷んだ棚が片づきはじめていると聞いてな。あの崩し字の棚だ。若い連中には読めんと、長いこと積んだままだった。それが今、半分ほど区画ごとに札が挟まっている」
あの棚だ、と思った。昨日、風の上級を探しに来た研究生が、片づきかけたその棚をすぐ脇で見ていた。読めない振りはした。だが仕事のほうが先に口を割っていたらしい。口では、いくらでも模様だと言える。だが、正しく仕分けられた棚は、読める者がいた証だった。
「読める者がいなけりゃ、できん芸当だ」男は言った。「それが、お前か」
僕は黙っていた。うかつに口を開けば、どこまで見せるかを決める前に決められてしまう。
男は懐から薄い紙を一葉、机に置いた。古い。端が茶に灼けている。びっしりと崩れた続け字が並んでいた。
「読めるか」
試している。読めれば拾い、読めなければそれまでという顔だった。
僕は紙を見た。
目が勝手に字を追いはじめる。難しい崩しだが、読めないほどではない。古い年貢の帳面の写しだ。どこそこの村が麦を何俵、税に納めた。日付。役人の名。それだけのことが模様のような字で書いてある。魔法とは何の関わりもない。ただ古くて、誰も読もうとしなかっただけの紙だ。
読める。全部読める。
そこで僕はいったん指を止めた。
年かさの下働きの声が耳の奥にあった。気に入られるのも考えものだ。司書の声も。上の連中には言うな。谷の男の乾いた声も。
――でも、と思う。
この房の色の男は、研究院の人間だ。研究院は、珍しいものを欲しがる。門の内側に、いちばん近い場所だ。あの娘が、ずっと前に道の入り口だと言っていた。ここで読めない振りをすれば、その入り口は閉じる。読んでみせれば、開くかもしれない。開いた先に、鉄格子と、その向こうの戸がある。
隠れていたい。上へは行きたい。その二つがまた同じ紙の上でせめぎ合った。
僕は腹を決めた。読む。ただし、読める字だけを。
「麦の、年貢の帳面です」
僕は言った。「北のほう、フェルローズの外れの村。三十年か、もっと前の。麦を四十俵。豆を十二俵。役人の名は、半分潰れて読めません」
男の眉が、上がった。
「……ほう」
紙を取り上げ、自分でも字を追う。追えていないのが、指の止まり方でわかった。潰れた役人の名のところで、男の指はただ止まっているだけだった。
「よく読めるな。これは、司書頭でも半分も追えん。どこで習った」
「独りで、覚えました」半分は本当だ。「田舎で、年寄りの手紙を代わりに読んでいたので」
嘘に本当を一片混ぜる。谷の男に教わったやり方だった。
男はしばらく僕を見ていた。
値踏みの目が、少しだけ別の色に変わっている。拾える、と踏んだ目だ。
「うちの書庫には、こういう読めない紙が山ほど眠っている」男は言った。「読める手が、いつも足りん。……下働きにしておくには、惜しいな」
惜しい、という言葉が、胸のどこかを掠った。
昔、屋敷では逆のことばかり言われた。使えない。惜しくもない。いない者として扱われた。それが今、房の色の男に惜しいと言われている。皮肉なものだと思う。読める、というただ一つのことで値が引っくり返る。
「すぐに、どうという話ではない」男は房を正した。「正式な籍が下りるのは、どのみち季節が変わってからだ。だが、その時に、口を利いてやれんこともない。研究院に、読める者の居場所はある。……覚えておく」
覚えておく。
その言葉を、僕は前にも聞いた。東の山の頂で、兄が同じことを言った。あのときと同じで、僕は自分の本当の名も、本当の力も、言えないまま覚えておかれる側にいる。それでも覚えておかれるだけ、いない者にされるよりはましだった。
男が去ったあと、司書が机の上の紙を戻しにきた。
「よけいなことを言うかと思ったが」老人は、ぼそりと言った。「言わなかったな」
格子の向こうの本のことだ、とわかった。あの原初式の言葉で書かれた一冊。あれを読めることは、房の男の前でも、おくびにも出さなかった。読める字だけを読んで、読めないふりをする字を選んだ。
「まだ、埃を払っているところなので」
僕がそう言うと、老人は、ふん、と鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「見込みだけは、あるらしい」
夕方、水を汲みに出ると、年かさの下働きが桶を並べて待っていた。
「昼間、房付きが来てたな」声に、いつもの棘のなさが、少しだけ薄い。「お前を見に、わざわざ」
噂は、下働きのあいだを、水より速く回るらしい。
「気に入られるのは、お前の勝手だ」男は桶を僕の手に押しつけた。「けどな。ひとりだけ上に引き上げられると、残ったこっちが、余計に軽く見られる。……それだけ、覚えとけ」
棘ではなかった。ただ、置いていかれる側の、静かな本音だった。僕は桶を受け取って、うなずくしかなかった。目立つというのは、こういうことでもあるのだ。誰かの前へ出れば、そのぶん誰かが後ろになる。
その夜、物置で、僕はまた蝋燭を三本立てた。
まん中の一本。息を、後ろの端から送る。昨日の一度きりの感触を、指がまだ薄く覚えている。今日は、十のうち二度だけ、まん中が取れた。昨日より、一つ増えた。それだけのことが、妙に嬉しかった。誰にも言えない嬉しさだ。物置の暗がりだけが、それを知っている。
消えた蝋燭の煙を見ながら、昼の紙を思い返す。年貢の帳面。麦と、豆と、潰れた名前。誰も読まないまま、山と眠っている紙。あの山のどこかに、母の一族のことも、眠っているだろうか。守る民の、本当の名前も。
外套の下の首飾りに、指で触れた。円のなかの螺旋。その空白の一文字を、僕はまだ埋められないでいる。答えは格子の向こうか、そのもっと奥の王城の戸の内にある。だが房の男の書庫の、読めない紙の底にも、糸の切れ端くらいは落ちているかもしれない。読める手は、いつも足りないと男は言った。ならば、拾えるのは僕だ。
房の男は、その山の鍵を、少しだけ僕の側へ寄せた。ただし、季節が変わってから。それまでは、下働きのまま、埃を払うだけだ。
急ぐな、と自分に言い聞かせる。急いで、いいことは、いままで一つもなかった。
蝋燭を、もう一度立て直す。まん中の一本を、また狙う。
開きかけた戸の隙間を、指の幅ぶん、今夜も広げておく。それしか、できることはなかった。
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