第84話「風を添える」
五日目の朝、老人は僕を格子の手前の棚へ連れていった。
昨日の箱ではない。壁ぎわの背の高い棚だ。詰まった本はどれも古く、虫食いで頁が抜け、背の文字は崩れて判じ物になっている。禁書区画の、こちら側。格子の内ではないが、いちばん近い棚だった。
「ここも傷んでいる」老人は言った。「札はある。だが崩し字で、若い連中には読めん。どれがどの棚へ戻るのか分からんまま積んである。……お前が読め」
昨日と同じだった。読めない振りは、もう間に合わない。断る気も起きなかった。
崩し字は、村の年寄りの手紙に似ていた。癖のある続け書きで、慣れない者には模様に見える。僕は一冊ずつ札を読み、棚の名を書いて挟んでいった。火の三級。風の四級。古い講義の写し。指が勝手に速くなる。
「速いな」
老人がぼそりと言った。咎める声ではない。ただ見ている。
昼前に、年かさの下働きが空の台車を押して通りかかった。ひと月早く入っただけの男だが、ここでは古株だ。積み上げた札挟みの本を見て、口の端で笑った。
「また読んでるのか。本は運ぶもんだって言ったろう」
棘はなかった。ただ、声を少し落として付け足した。「あの爺さんが手ずから仕事を回すのは珍しいぞ。……気に入られるのも考えものだ。目立って、いいことばかりじゃない」
台車の車輪が床の石を鳴らして遠ざかる。僕は挟みかけの札に目を戻した。目立って、いいことばかりじゃない。同じ言葉を、これで何人から聞いただろう。
昼過ぎ、棚の陰に人の気配がした。
若い男だった。下働きの粗布ではない。正規生ほど上等でもない身なり。研究生だ、と襟の色でわかった。腕いっぱいに本を抱え、僕には目もくれず棚を漁っている。何かを苛立たしげに。
「ないな……あの版が」
独り言だった。男は抱えた一冊を開き、頁の端を睨んでいる。風の上級の教本らしい。本文でなく、余白のほうを。
「これがなあ」男は誰にともなく言った。「式は頭に入ってる。詠唱も、魔力の通し方も、みんな習った通りにやってる。なのに、どうしても最後のひと押しが決まらん。三人にひとりは、ここで頭打ちだ」
男は余白を指で叩いた。細かい書き込みが、そこを埋めていた。
「昔の持ち主が、なにか書き足してる。それが読めれば手がかりになるんだが、崩れすぎててな。司書頭に見せても、模様だ、意味はない、で終わりだ」
僕は本を戻す手を止めていた。
男の指の先の、その書き込み。斜めに流れる続け字。目が勝手に拾ってしまう。――「先に、押すな」。「風は、後ろから来させろ」。
読める。全部ではないが、芯は取れる。風を前へ投げるのでなく、後ろから回して押させろ、と書いてある。式の詠唱には出てこない。式の下に、前の持ち主が手で書き足した、"どう流すか"の覚え書きだ。
男が習ったのは、式のほうだ。唱えれば風は出る。けれど式は、その風をどう流すかまでは教えてくれない。そこは自分の体で掴むしかなくて、掴めない者が三人にひとり頭打ちになる。前の持ち主は、それを言葉にして余白へ残した。誰にも読まれないまま。
僕はその続け字を、もう一度なぞった。書いた人が誰かは知らない。ずっと昔に死んだ誰かだ。式の下へ手を伸ばして掴んだものを、読まれるあてもなく余白へ書きつけて、逝った。読めない字で残された言葉を、僕はいま読んでいる。それだけのことが、なぜか胸の奥に触れた。
喉まで言葉が出かかった。それを、僕は呑んだ。
下働きが、正規生の読めない字を読んでみせる。老人の声が耳の奥で鳴った。上の連中には言うな。
「……おい」
男がふいに僕を見た。僕が覗いていたのに気づいたらしい。
「読めるのか、これが」
「いえ」僕は札束に目を戻した。「模様がきれいで、つい」
男はふん、と鼻を鳴らした。それきり興味をなくして棚に向き直る。去りぎわ、抱えた山にひとつ言葉を落とした。
「読めるやつがひとりでもいればな。……研究院は、そういうのを欲しがるんだが」
研究院。前に一度、耳にした名だ。珍しいものに目がない。見たことのない才があれば声がかかる。道の入り口の名だった。男の背が棚の向こうへ消える。
僕は拾いかけた言葉を、もう一度胸の底へ押し込んだ。今はまだ。名を出すのは、埃を払い終えてからだ。
――でも、と棚に向き直りながら思った。
あの男は、火は使えない。風だけだ。式が体の癖に合ったのが、風ひとつだったのだろう。合わなかった属性の式は、どれだけ唱えても魔力が滑って通らない。だから人は、みな自分に合う一色を"適性"と呼ぶ。
僕には、その一色がない。ずっと欠けていると言われてきた。
けれど、と手のなかの崩し字を見る。欠けているのではなく、どの色も塗られていないだけなら。札がないのではなく、まだ何も貼られていない余白なら。――そこまで考えて、僕は首を振った。決めつけるな。確かめてから。いつもの癖だ。
その夜、物置で、僕は火ではなく風を試すことにした。
棚から燭台を持ってきて、三本の蝋燭に火を移す。並べて立てた。狙いは、まん中の一本だけ。両隣を揺らさずに、まん中の炎だけを消す。
これが、ずっとできなかった。風は起こせる。だが起こした先で、狙ったところへ向いてくれない。ひと巻きの渦は、放ったとたん勝手にほどけて広がる。掌の上で髪一筋ぶん傾けるのが、これまでの精一杯だった。「流す」。壁で覚えた言葉だ。読めるのに、指がついてこない。ずっと、そうだった。
昼の書き込みが、頭にあった。先に押すな。風は、後ろから来させろ。
押していたのだ、と思う。僕はいつも、風の先っぽを、行かせたい方へ突き出そうとしていた。だからその先がたわんで、ほどけて広がる。縄と同じだ。前の端を押せば、たわんであらぬ方へ暴れる。後ろの端から送れば、まっすぐ伸びる。
力を入れる場所を、変えてみる。前の端ではなく、いちばん後ろの端。そこを押して、風の先のほうは、狙いへまっすぐ送ってやるだけにする。行き先は変えない。まん中の炎、ひとつきり。
細い息が、糸のまま、まっすぐ伸びた。今度は、ほどけない。
まん中の炎が、ふっと傾ぐ。両隣は、揺れない。
――消えた。まん中の一本だけが、細い煙を残して。
息が止まっていた。
もう一度。今度は後ろを押す力が強すぎて、風の先が途中で散り、三本まとめて揺らして終わる。その次は、つい癖で前の端を押してしまい、風は端の一本を巻き込んで消した。十のうち、まん中だけを取れたのは、はじめの一度きり。
それでも、指の先に、初めて"届いた"感触が残った。
風が言うことを聞くなら、火も聞く。火の壁の逸れも、いつか減るだろう。絞りだって、狙ったところへ届く。ずっと固く閉じていた戸が、指の幅だけ開いた。読めるだけだった言葉が、ほんの少し、手の内へ入ってきた。
谷の男は言っていた。流す、集める、絞る。手が覚えた分しか使えん、と。あの人は、型を繰り返すだけだと。僕は、死んだ誰かの覚え書きから、その型のこつを一つ盗んだ。読めた、というだけのことで。
燭台の、消えた一本を見た。昼の読めない欄外注記も、この一本も、まだ半端なまま手のなかにある。半端なりに、昨日より、ほんの少しだけ前にあった。
格子の向こうの本を、いつか残らず読み終えるころ。僕は、どこまで行けているだろう。
埃をまた一日ぶん払った。それだけの夜だった。
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