第83話「箱の底」
四日目の朝、老人が僕を手招きした。
声は、やはり出さなかった。曲がった指が、書庫の奥の埃をかぶった木箱を指す。運べ、ということらしい。僕は箱を抱えた。ずしりと重く、湿った紙の匂いがした。底のほうが水を吸ってふやけている。
老人は、それをいちばん奥の作業机へ運ばせた。格子の、すぐ手前だ。
「傷んだ本だ」老人がようやく口を開いた。「雨漏りで、分類札が流れた。どれがどの棚のものか、分からなくなった」
箱の中には、表紙の取れた本が無造作に積まれていた。背の文字も水に滲んで読めないものが多い。
「中を、読め」老人は言った。「読んで、どの区画のものか仕分けろ。……字が、読めるんだろう」
僕は老人の顔を見た。
三日前、僕が背表紙を速く読んだのを、この人は見ていた。あのとき、何も言わなかった。咎めもしなかった。ただ、見た、という顔をした。その"見た"が、今こういう形で返ってきた。
「……できます」
僕はそう答えた。ここで読めない振りをしても、もう遅い。それに――正直に言えば、断る気が起きなかった。
仕分けは思ったより手間だった。
水に滲んだ字は、半分が消えている。残りの半分から、中身を推し量る。火の教本か、風の教本か。初級か、中級か。一冊ずつ開いて、読んで、区画の名を書いた紙を挟んでいく。字を読むことが、そのまま仕事になる。村で手紙を代読していたころを思い出した。あのころと、同じだ。僕のいちばん得意なことが、いちばん役に立つ。
水に濡れた頁の、生き残った半分を読む。火の初級。風の初級。誰かの講義の書き取り。余白には、居眠りの落書きまである。どれも、僕には初めて触れるものばかりだった。村の手紙には、こんなことは書いていなかった。畑の実りと、借金と、誰かの死。紙にのるのは、それだけだった。ここの紙には、火の作り方が、風の起こし方が当たり前のように書いてある。読めば、覚えられる。覚えれば、増やせる。
こんな時間が、あっていいのか。
箱のいちばん底に、毛色の違う本が一冊あった。
革が、ほかより古い。分厚くて、頁が羊皮に近い。水を吸ってなお、ほかの紙よりしっかりしている。開くと、見慣れない図が並んでいた。渦。枝分かれした線。中心へ巻き込む、細い螺旋。……落書き帳の、あの形に遠く似ている。
指が、止まった。
文字も、今の教本のものとは違った。もっと角ばって、古い。読めない字が多い。それでも、ところどころ拾える。「集める」。「散らす」。僕が、いちばん最初に遺跡の壁で読んだ、あの二つだ。
息が浅くなった。
この本は、読める。全部ではない。けれど、僕の落書き帳と同じ言葉で書かれている。学舎の教本には、一度も出てこなかった言葉で。誰も読めないと片づけられた、格子の向こうの本。その正体は、これなのか。読めないのではない。読める者がいなかっただけだ。
「それは、読むな」
老人の声が、すぐ後ろでした。
いつのまにか、僕の手もとを覗き込んでいた。曲がった背を、さらに曲げて。その目が、頁の図をじっと見ている。読めない字を眺めるだけの目だ。オズと同じ目だった。三十年、意味があると言い続けて莫迦にされてきた、あの目。
「そいつは、格子の向こうの棚のものだ」老人は言った。「まぎれこんだんだろう。……お前が仕分けなくていい」
僕は本を閉じた。
「これは、何の本ですか」
訊いてしまってから、しまった、と思った。読めない振りを、しておくべきだった。けれど、老人は怒らなかった。しばらく黙って、それからぼそりと言った。
「知らんよ。誰も読めん。読めんから、格子の向こうにある」
その言い方に、少しだけ悔しさのようなものが混じっていた。読めないものを、読めないまま仕舞っておく。この人も、その門番を長いことやってきたのだろう。
老人は、その古い本を僕の手から取り上げた。皺だらけの手が、思ったより丁寧だった。
「お前、字が読めるのを、上の連中には言うな」
ふいの言葉だった。谷の男と同じことを言う。けれど、声の色が少し違った。谷の男のは、乾いていた。この老人のは――案じている、というほうが近かった。
「読める下働きは、便利がられる。便利がられると、いいように使われて、すり切れる。それだけならいい。だが、たまに読めすぎる者がいる。そういうのは……」老人は、そこで言葉を切った。格子の向こうへ目をやった。「便利がられるだけじゃ、済まなくなる」
僕は答えなかった。答えようがなかった。
この人が、僕を守ろうとしているのか、ただ見張っているのか。分からなかった。たぶん、両方だ。この学舎で、僕に何かを言ってくれる人間は、まだこの寡黙な老人しかいなかった。
しばらくして、僕はできるだけ何気なく訊いた。
「あの格子の向こうには……誰が、入れるんですか」
老人は僕を一瞥した。今の問いの、ほんとうの重さを量るような目だった。
「鍵を持つのは、司書頭と、宮廷から来る監督官だけだ」老人は言った。「読む許しが下りるのは、上の研究生か、宮廷の魔導師か……あとは、王家の血の者くらいのものだ。下働きが、生きているうちに、あの内側を見ることはない」
下働きが、生きているうちに。
その言葉を、僕は胸の奥へそっと畳んで仕舞った。オズが言ったのと同じだった。王族。宮廷の魔導師。学舎の、上の研究生。冒険者になりたてのころ、あの古い蔵で聞いた資格の並びが、今この鉄格子の前で、そっくり繰り返された。遠回りに見えた道は、間違っていなかった。ただ、長いだけだ。
その夜、物置で僕は火を集めた。
昼に見たあの古い図を思い出す。渦。枝分かれ。中心へ巻き込む螺旋。あれは、たぶん流れの描き方だ。落書き帳のと、同じ。読めなかった字の分、僕にはまだ手が届かない。それでも、絞った火を槍の形に伸ばす。今日は、指の長さぶん伸びた。昨日より、少しだけ長い。
できることが、またそっと一つ増えた。
僕は火を消して、暗がりに座った。格子の向こうの、あの古い本。読めなかった字が、いくつあっただろう。あれを全部読めるようになったころ、僕はどこまで行けているだろうか。
箱の底から、ひとつ扉が見えた気がした。ずっと遠くの、いちばん奥の扉だ。今はまだ、手前の埃を払うことしかできない。それでも、扉があると分かっただけで、夜の詰所の冷たさが少しだけ遠くなった。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや★★★★★評価・感想をいただけると、今後の執筆の励みになります!




