第82話「読めない振り」
下働きの仕事に、書庫の掃除が加わった。
学舎の書庫は、講堂の三つ分はある石造りの建物だった。天井まで棚が届き、梯子を使わなければ上には手が届かない。棚のあいだの通路は薄暗く、昼でも点々と魔法の灯りが灯っている。紙と、埃と、古い革の匂い。僕は、その匂いをたぶん一生忘れない。
仕事は単純だった。棚の埃を払い、返された本を元の場所へ戻す。それだけだ。けれど僕にとっては、それだけのことがどうかしていた。
本が、こんなにある。
村では、字の読める者が僕のほかにほとんどいなかった。手紙一枚を代読するだけで、芋がもらえた。ここでは、その手紙よりずっと難しいものが、床から天井までただ並んでいる。誰でも手を伸ばせば読める。読めるのが、当たり前の場所。
僕は、埃を払う手を何度も止めた。
「新入りか」
隣の棚で箒を使っていた年かさの下働きが、手を止めずに言った。ここに長いらしい。名は、まだ知らない。
「言っとくがな。ここの本は、読むもんじゃねえ。運ぶもんだ」男は、止まった僕の手を横目で見た。「字を覚えた下働きは、たいてい長続きしねえ。中途半端に賢いのは、上の連中にいちばん嫌われる」
棘のない声だった。むしろ、親切なほうだ。
「……気をつけます」
そう言うと、男はそれきり箒を動かしはじめた。深くは訊かない。ここも、そういう場所らしかった。名を訊かれない。理由を問われない。それが僕には、ありがたかった。
書庫を仕切っているのは、小柄な老人だった。
背が曲がって、いつも同じ茶色の上っ張りを着ている。声をめったに出さない。下働きへの指図も、指と顎だけで済ませる。あそこを拭け。それを戻せ。それだけだ。けれど、その目は思ったより鋭かった。
三日目のことだ。
僕は返却の棚から一冊を取って、背表紙を見た。火の属性の初歩の教本だった。背の文字を読んで、棚の"火"の区画へ戻す。当たり前の動きだった。
だが、その動きが速すぎたらしい。
「お前」
老人が通路の奥から僕を見ていた。いつからそこにいたのか、分からない。
「背を読んで、戻したな。中を確かめもせずに」
心臓が小さく跳ねた。谷の男の声が、耳の奥でよみがえる。読めた、と口に出すな。僕はたった今、背表紙の文字が読めることをこの老人に見せてしまった。下働きに、字が速く読める者はそう多くない。
「……たまたま、覚えていたので」
そう言って、目を伏せた。読めない振りは、もう遅い。せめて、大したことではない振りをする。
老人は、しばらく僕を見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らして背を向けた。咎めるでも、感心するでもない。ただ、見た、という顔だった。それが、かえってこわかった。
書庫の、いちばん奥。
そこに、鉄の格子で仕切られた一画があった。
格子の向こうにも、棚が並んでいる。だが、そこの本には鎖の巻かれたものがある。表紙に、見たことのない古い文字が背いっぱいに彫られたものもある。下働きが掃除で入れるのは、格子の手前までだ。奥へは、鍵がいる。
僕は格子の前で足を止めた。
オズの言葉を思い出した。まだ冒険者になりたてのころ、世話になった記録官だ。あの古い蔵で聞いた話。読めるべきでない者から遠ざけるための蔵。本物は、王城の奥にある、と。この鉄格子は、そのずっと手前の、いちばん外側の一枚にすぎない。それでも、格子だ。手が届かない。
格子の奥の、いちばん高い棚。
その背表紙の一つに、僕は見覚えのある形を見た気がした。渦。細く巻き込まれた、螺旋。落書き帳の、あの形に似ている。
……気のせいだ。遠すぎて、よくは見えない。そう思うことにした。格子を握りかけた手を、僕はそっと下ろした。今の僕には、この格子を開ける鍵がない。開ける資格がない。下働きの分際で格子の奥をじっと見ているのを、誰かに見られるのもまずい。
格子に背を向けたとき、通路の入口で声がした。
「おい、そこの」
仕立てのいい外套の若い男だった。正規の生徒だ。腕に、何冊も本を抱えている。
「これを、棚に戻しておけ。三階の、風の上級だ。……読めるならな」
最後のひと言に、笑いが混じっていた。下働きに上級の区画の場所が分かるものか、という笑いだ。僕は本を受け取った。ずしりと重い。
「承知しました」
それだけ言って、頭を下げた。言い返す言葉は、いくらでもあった。三階の風の上級が、どの棚かも背を見れば分かる。中身だって、たぶん半分は分かる。けれど、その全部を呑み込んだ。ここで賢いところを見せて、何になる。目立つな。谷の男の声が、また耳のうしろで鳴った。賢い下働きは、珍しい。珍しいものは、覚えられる。覚えられた名は、いつか掴まれる。
僕はうつむいたまま、梯子のほうへ歩いた。若い男は、もう僕を見ていなかった。下働きの顔なんて、一度見ればじゅうぶんだったのだろう。それでいい。顔を覚えられないことが、僕のいちばんの武器だった。
その日の夕方、抱えた本を三階の棚へ戻し終えた。
窓から、中庭が見えた。
あの娘がいた。よく通る声で、火の形を組み替えている。細い槍。平たい刃。渦を巻いた球。昼の講義で教師が見せたのと、同じ形だ。それを、あの娘は、教わったその日のうちに迷いなくやってのけている。優秀だ、と、誰かが言っていた。今年の入学生の中でも、指折りの、と。
僕は窓の桟に手をかけて、しばらくそれを見ていた。
僕が夜中に、物置の暗がりで、三度に一度、手探りで掴んでいるもの。それを、あの娘は昼の光の下で当たり前に握っている。まぶしくて、少し悔しかった。それから、その悔しさが嫌いではない自分に気づいた。
……まだだ。
僕は窓から離れた。掌には、まだあの火の熱と霜の冷たさが、両方、眠っている。それを見せられる日まで、僕は読めない振りをして、格子の手前で埃を払う。急がない。急いで、いいことは何もない。
書庫の灯りを一つずつ消して、僕は詰所へ帰った。
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