第81話「末席」
下働きの朝は、鐘より早い。
まだ暗いうちに詰所を出て、井戸の水を汲む。講堂の床を拭き、暖炉に薪をくべる。夜のうちに冷えきった石の建物へ、火と水と人の動く気配を一つずつ戻していく。それが、下働きの仕事だった。
学舎の朝は、そうして誰かの手で始まる。だが、それに気づく者は、ほとんどいない。仕立てのいい外套の若者たちは、暖まった講堂に当たり前の顔で入ってくる。当たり前の顔で席に着く。床が乾いていることも、暖炉に火があることも、彼らには朝、日が昇るのと同じだ。誰かがやっている、とは考えない。
僕は、それでよかった。見られない場所にいるのは性に合っている。
雑巾を絞る手を止めて、僕は席のいちばんうしろ、扉のわきの壁ぎわにそっと立った。そこが、僕に許された場所だった。
研究生の下働きには、末席での聴講が許されている。
といっても、席はない。壁にもたれて立ったまま聞くだけだ。書き留めることもしてはいけない。手ぶらで、ただ耳を貸すことだけが許されている。それでも、僕にはじゅうぶんすぎた。金貨を積んでも買えなかったものが、床を拭く手間だけで耳に入ってくる。
その朝の講義は、火の中級だった。
白髪の教師が教壇で手をかざす。低い詠唱が流れはじめた。長い。領都で聞いた冒険者の詠唱より、ずっと長くて細かい。やがて、手のひらの上に炎が立った。ただの炎ではない。渦を巻いて、細く鋭く上へ伸びていく。芯が青い。
「火を、ただ燃やすのではない」教師の声は乾いていた。「集めた魔力に火の性質を与え、形と密度を決めてやる。中級とは、この"決めてやる"の精度だ。初級は火を出す。中級は、火を思ったとおりの形にする」
僕は壁ぎわで息を殺していた。
分かる。言っていることが、手に取るように分かる。教師が"形を決める"と言ったその手つきは、僕が谷で火を細く絞ったときのあの感じと同じだ。ただ、教師のそれは詠唱という決まった順路を通り、迷いなくそこへ着く。僕のは毎回、暗闇を手探りで同じ場所を探し当てようとしている。着く先は、たぶん同じだ。ただ、道の通り方がまるきり違う。
教師が炎の形をいくつか変えてみせた。細い槍。平たい刃。渦を巻いた球。一つ変えるたびに、詠唱の一節が少しずつ違う。あの一節が、形を決める鍵だ。僕はその違いを耳の奥に写し取っていく。書くものは要らない。頭の中に螺旋を刻むように覚えていく。
これが、学舎か。
谷の男が言った。読める者は、型を自分で増やせる、と。けれど、増やすためのお手本は独りで旅をしていてはそう手に入らない。ここには、それが毎朝、教壇の上で惜しげもなく披露される。掃いて捨てるほどの秀才と、掃いて捨てるほどの、お手本と。
その夜、詰所の裏の誰も来ない物置で、僕は手のひらに火を集めた。
昼に見た教師の炎を思い出す。集めて、性質を与え、形を決める。僕のやり方は詠唱を通らない。だから順番も教師とは違う。集めた流れを、じかに細く絞る。そこまでは、谷でやったのと同じだ。
問題は、その先だった。
絞った火に、教師のように"形"を与えられるか。細いだけの火ではなく、思った形の火に。僕は絞った火の先を槍の形に伸ばそうとした。
一度目は、散った。二度目も、途中でしぼんだ。
けれど三度目に、細く尖った火が、すっとまっすぐ前へ伸びた。短い。指の長さもない。それでも、それは僕が"形を決めた"火だった。偶然ではなく、決めてそうした火だった。
しばらく、それを見ていた。
絞りが、いつの間にか外れなくなっていた。谷で三回に一度だったのが、今は当たり前に立つ。当たり前になったから、その次へ手が伸ばせる。上達というのは、たぶんこういう順番でしか進まない。派手な飛躍はない。できることがそっと一つ増える。ただ、それだけだった。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
物置の暗がりで、僕はもう一つだけ試したいことがあった。
火でも、風でもないもの。手のひらに流れを集めて、火の性質も風の性質も与えず、ただ"冷やす"ことだけを思ってみる。指先がつんと冷たくなった。掌の上に、霜のような白いものがちらと浮いて、すぐ消えた。
……できる。たぶん、できる。
僕はすぐに手を握って、それを散らした。ここでは、火と風しか使わない。それが生きるための約束だ。火でも風でもないものを、この街で見せた瞬間、僕は"珍しいもの"になる。囲われて、名を消される側になる。分かっている。分かっていて、それでも掌の冷たさが、しばらく消えなかった。
物置を出ると、中庭のほうに灯りがひとつ点いていた。
こんな時刻に、誰かがまだ稽古をしている。よく通る詠唱の声。ぱっと熱くなる、迷いのない火。昼の講堂のどの生徒よりも、その火は澄んでいた。……この気配だ。
僕は、そちらへ足を向けかけてやめた。
まだだ。今の僕は、火を一つまっすぐ伸ばせるようになっただけの下働きだ。会うのは、もう少しやることをやってからでいい。
灯りに背を向けて、詰所へ戻った。掌には、まだ火の熱と霜の冷たさが両方、残っていた。どちらも、まだ誰にも見せられない。
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