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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
学園編

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第81話「末席」

 下働きの朝は、鐘より早い。

 まだ暗いうちに詰所を出て、井戸の水を汲む。講堂の床を拭き、暖炉に薪をくべる。夜のうちに冷えきった石の建物へ、火と水と人の動く気配を一つずつ戻していく。それが、下働きの仕事だった。

 学舎の朝は、そうして誰かの手で始まる。だが、それに気づく者は、ほとんどいない。仕立てのいい外套の若者たちは、暖まった講堂に当たり前の顔で入ってくる。当たり前の顔で席に着く。床が乾いていることも、暖炉に火があることも、彼らには朝、日が昇るのと同じだ。誰かがやっている、とは考えない。

 僕は、それでよかった。見られない場所にいるのは性に合っている。

 雑巾を絞る手を止めて、僕は席のいちばんうしろ、扉のわきの壁ぎわにそっと立った。そこが、僕に許された場所だった。


 研究生の下働きには、末席での聴講が許されている。

 といっても、席はない。壁にもたれて立ったまま聞くだけだ。書き留めることもしてはいけない。手ぶらで、ただ耳を貸すことだけが許されている。それでも、僕にはじゅうぶんすぎた。金貨を積んでも買えなかったものが、床を拭く手間だけで耳に入ってくる。


 その朝の講義は、火の中級だった。

 白髪の教師が教壇で手をかざす。低い詠唱が流れはじめた。長い。領都で聞いた冒険者の詠唱より、ずっと長くて細かい。やがて、手のひらの上に炎が立った。ただの炎ではない。渦を巻いて、細く鋭く上へ伸びていく。芯が青い。

 「火を、ただ燃やすのではない」教師の声は乾いていた。「集めた魔力に火の性質を与え、形と密度を決めてやる。中級とは、この"決めてやる"の精度だ。初級は火を出す。中級は、火を思ったとおりの形にする」

 僕は壁ぎわで息を殺していた。

 分かる。言っていることが、手に取るように分かる。教師が"形を決める"と言ったその手つきは、僕が谷で火を細く絞ったときのあの感じと同じだ。ただ、教師のそれは詠唱という決まった順路を通り、迷いなくそこへ着く。僕のは毎回、暗闇を手探りで同じ場所を探し当てようとしている。着く先は、たぶん同じだ。ただ、道の通り方がまるきり違う。


 教師が炎の形をいくつか変えてみせた。細い槍。平たい刃。渦を巻いた球。一つ変えるたびに、詠唱の一節が少しずつ違う。あの一節が、形を決める鍵だ。僕はその違いを耳の奥に写し取っていく。書くものは要らない。頭の中に螺旋を刻むように覚えていく。

 これが、学舎か。

 谷の男が言った。読める者は、型を自分で増やせる、と。けれど、増やすためのお手本は独りで旅をしていてはそう手に入らない。ここには、それが毎朝、教壇の上で惜しげもなく披露される。掃いて捨てるほどの秀才と、掃いて捨てるほどの、お手本と。


 その夜、詰所の裏の誰も来ない物置で、僕は手のひらに火を集めた。

 昼に見た教師の炎を思い出す。集めて、性質を与え、形を決める。僕のやり方は詠唱を通らない。だから順番も教師とは違う。集めた流れを、じかに細く絞る。そこまでは、谷でやったのと同じだ。

 問題は、その先だった。

 絞った火に、教師のように"形"を与えられるか。細いだけの火ではなく、思った形の火に。僕は絞った火の先を槍の形に伸ばそうとした。

 一度目は、散った。二度目も、途中でしぼんだ。

 けれど三度目に、細く尖った火が、すっとまっすぐ前へ伸びた。短い。指の長さもない。それでも、それは僕が"形を決めた"火だった。偶然ではなく、決めてそうした火だった。

 しばらく、それを見ていた。

 絞りが、いつの間にか外れなくなっていた。谷で三回に一度だったのが、今は当たり前に立つ。当たり前になったから、その次へ手が伸ばせる。上達というのは、たぶんこういう順番でしか進まない。派手な飛躍はない。できることがそっと一つ増える。ただ、それだけだった。

 それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。


 物置の暗がりで、僕はもう一つだけ試したいことがあった。

 火でも、風でもないもの。手のひらに流れを集めて、火の性質も風の性質も与えず、ただ"冷やす"ことだけを思ってみる。指先がつんと冷たくなった。掌の上に、霜のような白いものがちらと浮いて、すぐ消えた。

 ……できる。たぶん、できる。

 僕はすぐに手を握って、それを散らした。ここでは、火と風しか使わない。それが生きるための約束だ。火でも風でもないものを、この街で見せた瞬間、僕は"珍しいもの"になる。囲われて、名を消される側になる。分かっている。分かっていて、それでも掌の冷たさが、しばらく消えなかった。


 物置を出ると、中庭のほうに灯りがひとつ点いていた。

 こんな時刻に、誰かがまだ稽古をしている。よく通る詠唱の声。ぱっと熱くなる、迷いのない火。昼の講堂のどの生徒よりも、その火は澄んでいた。……この気配だ。

 僕は、そちらへ足を向けかけてやめた。

 まだだ。今の僕は、火を一つまっすぐ伸ばせるようになっただけの下働きだ。会うのは、もう少しやることをやってからでいい。

 灯りに背を向けて、詰所へ戻った。掌には、まだ火の熱と霜の冷たさが両方、残っていた。どちらも、まだ誰にも見せられない。

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