第80話「王都」
王都は、遠くからでも分かった。
街道の最後の丘を越えると、平野の向こうに灰色の塊が横たわっていた。城壁だ。領都のそれとは比べものにならない。端はどこまで行っても途切れない。内側には屋根が幾重にも重なり、朝もやの底に沈んでいる。塔がいくつも空へ突き出していた。その先で、朝日を受けた何かが光っている。
僕はしばらく、足を止めて見ていた。
ここまで来た。
母のいた場所へ通じる扉は、あの塊のどこか奥にある。手前の門から、一つずつ開けていくしかない。分かっていて、足はすぐに動かなかった。大きすぎるものを前にすると、人は自分が急に小さくなった気がするものらしい。
門をくぐるのに、半刻も並んだ。
荷を検める兵の列は、領都の比ではない。行商の荷車。巡礼の一団。家紋を染めた幕を張った馬車。その馬車だけは、並ばずに脇の道から入っていった。家柄のある者は、列に並ばない。ここでは、生まれが道を分ける。それを門の前で、いきなり教えられた。
僕の番が来た。兵は通行の証にちらと目を落とし、「用は」と訊いた。
「……学舎に」
言うと、兵の目がほんの少し変わった。値踏みするような、それでいて関わる気はない目だ。「東の丘の上だ。迷ったら誰かに訊け」。それだけ言って、顎で通した。
城壁の内は、石の街だった。
石畳が、どこまでも続いている。水路が街を割って走り、その水は澱まず流れていた。ふと見ると、水路の要所に小さな渦が立っている。誰も手を触れていない。それなのに水は、自分から向きを変えて流れていく。魔法だ。街の仕掛けに、当たり前のように魔法が編み込まれている。領都では、詰まった水路を人が竿で浚っていた。割の悪い日は、その泥を掻き出すのが僕の稼ぎだった。ここでは、たぶん、その仕事さえ要らない。
角の広場に、人だかりがあった。
覗くと、若い魔法使いが街灯に火を入れて回っていた。指を鳴らすだけで、灯の芯にぽっと青い火が灯る。一つ。二つ。三つ。息をするより速い。詠唱もためらいもない。僕が谷で半日かけて掴んだ一粒の火を、あの男は歩きながら十も二十も配っていく。
その手元から、目が離せなかった。
あれは、僕にも作れる火だ。作り方も、たぶん分かる。けれど、あの速さと当たり前さは、僕にはまだない。しかもここには、あれが掃いて捨てるほどいる。上には、まだいくらでも上がある。谷の男の背中の遠さが、ここでは街ひとつぶんに増えていた。
こわい、と思った。同時に、指の先がうずいた。
東の丘を登った先に、学舎はあった。
白い石の門が、朝の光を弾いている。両脇には槍を持った衛士が立っていた。行き交うのは、仕立てのいい外套の若者ばかりだ。誰も彼も、迷いのない足取りで門をくぐっていく。ここへ来ることが、生まれたときから決まっていた者の歩き方だった。
生家でも、正面の門は兄と父と客人のものだった。僕はいつも裏の使用人門を使い、その門を庭の隅から見ているだけだった。ここでも僕は、あの隅にいる気がする。ただ、見上げる門が一つ大きくなっただけだ。
衛士に、革の筒を差し出した。
「カイル・アークライト様の、書付を持っています」
その名を出した途端、衛士の手つきが変わった。蝋の紋を検め、中の書付に目を走らせる。それから、値踏みではなく、少し戸惑ったような目で僕を見た。みすぼらしい流れ者と、書付の名の重さ。その二つが、彼の目のなかでどうしても釣り合わないのだろう。
「……研究生の口だな」衛士は書付を丁寧に筒へ戻した。「話は通っている。中で名を告げろ。ただし」
衛士は、少し声を落とした。
「正式な籍が下りるのは、季節が変わってからだ。それまでは下働きと、許された講義の聴講だけ。あんたのような口の者は、そのあいだにたいてい心を折られて、いなくなる」
忠告なのか脅しなのか、分からなかった。たぶん、両方だ。
門をくぐる前に、僕は一度だけ掌の中の首飾りを確かめた。
男の言葉が、まだ残っている。読めた、と口に出すな。ここは、その言葉がいちばん高くつく場所だ。賢い者はいくらでもいる。珍しいものを欲しがる者も、その中に紛れている。……現に、門の少し手前から僕を見ている目が一つ、あった気がした。振り向くと、誰もいない。気のせいだ。そう思うことにした。
中へ足を踏み入れると、どこかの中庭から女の声が上がった。詠唱の、澄んだ一節。続いて、ぱっと空気が熱くなる気配。火だ。よく通る、迷いのない火。この気配を、僕はどこかで知っている気がした。
……いや。まだ、確かめない。
僕は気配のするほうを、あえて見なかった。下働きの詰所の場所を、通りかかった下男に訊く。
詰所へ向かう石畳は、朝の人の波でざわめいていた。
誰も、僕を見ていない。下働きが一人増えたところで、この街は何も変わらない。名を捨てた僕には、それでよかった。むしろ、ちょうどよかった。
季節がひとつ、変わるまで。下働きの合間に、やることは山ほどある。
僕は詰所の戸を押した。中は、思っていたよりずっと暗かった。
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