第79話「素の言葉」
領都を出て、三日が過ぎた。
街道は登りに変わり、畑が減って痩せた松が増えた。王都はまだ遠い。地図では指の幅ひとつだが、足で測れば何日ぶんもある。急ぐ理由はない。ひと月の猶予は、まだ半分以上残っていた。
三日目の夕方、道端の古い石橋のたもとで火を焚いた。麦の粥が煮えるのを待ちながら、落書き帳に短刀の手順を書いていた。山刀と組にして振る動きが、まだ体に馴染まない。頭では順が見えているのに、手が半拍遅れる。
「相変わらず、書いてるな」
声は、火の向こうからした。
僕は麦をこぼしかけた。足音は聞こえなかった。旅人の風体の男が橋の欄干に腰かけている。手ぶらだった。谷で会った、あの男だ。
「……あんた」
「久しぶりだな」男は欄干から下りた。「書きながら煮ると、たいてい焦がすぞ」
どうしてここに、とは訊かなかった。この男に道順を訊いても、まともな答えは返ってこない。谷でも峠でも、気づけば横にいた。追ってくるのでも、待っているのでもない。風が同じ方へ流れれば、同じ草が揺れる。それくらいの現れ方だった。
男は火の反対側に座り、粥を覗いて塩が足りないと言った。それから懐の布から乾いた肉を二切れ鍋のふちに置いた。
「王都だろう」
僕の手が止まった。行き先を言い当てられた。ダーグにも同じことをされた。僕はそんなに遠くを見た顔で歩いているんだろうか。
「なんで、分かる」
「その道を、その荷で歩く奴の行き先なんざ知れてる」男は火に枝を足した。「学舎に潜り込むんだろう。選りすぐりの秀才が、正しいとされる魔法を競い合う場所だ。……お前のようなのが、裏口から紛れ込む場所でもある」
僕は返す言葉に詰まった。この男に隠しても無駄だと分かっていた。谷で焦げた掌を見られたときから、ずっとそうだった。
その晩、男は木の幹に背をつけ片膝を立てたまま眠った。夜中に目を覚ますと、男は起きていて、街道の先の暗い尾根を見ていた。何かを待つのでも、恐れるのでもない。そこに何かが出るのを知っている者の目だった。僕と目が合うと、「寝ろ」とだけ言った。
夜明け前、川べりで山刀と短刀を抜いた。
二本を持つのは、まだ慣れない。右の山刀は馴染むが、左の短刀は軽すぎて先が泳ぐ。同時に振ると、どちらかがどちらかの邪魔をした。三度目に足がもつれて膝をついた。
「二本とも、振ろうとするからだ」
男が川の石に座っていた。いつからいたのか、また分からない。
「二本持つなら、片方は攻めるな。片方で相手を動かして道を作れ。斬るのは、もう片方だけでいい」
やってみろ、と男は立ち上がった。「俺を動かしてみろ。斬らなくていい。一歩、横へずらせたら、お前の勝ちだ。」
僕は山刀を構えた。男は手ぶらのままだらりと腕を下げて立っている。隙だらけに見える。その隙だらけがいちばん厄介だと谷でも峠でも知っていた。
踏み込んで左の短刀で男の右へ払う。意識をそちらへ向けさせて山刀で左を薙ぐ――はずだった。
男は動かなかった。正確には、動いたのに動いて見えなかった。僕の刃が空を切った瞬間、男の体はもう半歩ぶんそこにない場所にあった。押したはずの僕の腕が、ゆるい流れに乗せられて外へ逸れる。自分の力で泳いだつもりが、川に流されていた。そんな心地だった。気づけば僕は、たたらを踏んで男の横をすり抜けていた。
斬れなかった。触れることさえできなかった。
「今の、風だろう」
「さあな」男は袖を払った。「気のせいで、人はたたらを踏まねえよ」
僕がいつも、人に返している言葉だった。それを、そっくり返された。見せておいて、教えない。この男はいつもそうだ。
それでも男は、その朝いくつか教えてくれた。
まず、絞りだ。谷で一度、豆粒ほどの鋭い火を掴んで以来、出せる日と出せない日の差が分からずにいた。男は僕の手元を見もせず言った。「渦を小さくしようとするな。細くするんだ。渦は同じでいい。出口だけを、針の穴にしろ」
火を集めて、いつものゆるい塊をたたむのをやめた。出口だけを、思うだけ細くする。
火が、変わった。青白く尖ってしゅっと音を立て、焦げた点が石を貫いた。熱は高い。使った魔力は少ない。細くするほど、燃費が減って威力が増す。理屈が合わない。合わないのに、そうなる。
「なんで、細くすると強くなるんだ」
男は火を見ていた。しばらくして、口を開いた。
「その火の出し方には、名前がある。原初式、と俺たちは呼ぶ」
聞いたことのない言葉だった。それなのに、なぜか耳の奥にすとんと落ちた。
「今の魔法使いは」男は枝の先で地面に四角をひとつ描いた。「生まれついた属性を、決まった手順で組む。唱えて、属性を塗って、形を作って、放つ。よくできた道具だ。速いし、確実だ。……だが、誰かが大昔に、この四角のなかだけで十分だと決めて外を捨てた。今のは、その捨てたあとの形だ」
男は四角の外側を、枝でぐるりと囲った。
「原初式ってのは、その捨てられた外側だ。属性の手前、火でも風でもない素のところから、じかに流れをいじる。だから無属性のお前が、火も風も出せる。手順を組むんじゃない。流れそのものを読んで動かす」
僕は息をするのを忘れていた。落書き帳の螺旋。集める、ほどく。壁いっぱいに途切れず続いていた、あの形。あれが、この男の言う素のところなのか。
「属性なんてのはな」男は四角のなかを枝先で軽く叩いた。「後から貼った札だ。流れに名前をつけて、扱いやすくしただけの。お前が読んでる形は、その札を貼る前の――素の言葉だ」
素の言葉。
その言い方が、胸の奥のどこかにぴたりとはまった。ずっと、そうじゃないかと思っていた。火とか風とか、名前のついたものより、もっと手前に名前のないものがある。うまく言えずにいた形を、この男はこともなげに口にした。
「じゃあ」声が、少しかすれた。「じゃあ、今の魔法は、間違ってるのか」
男は笑わなかった。
「さあな。俺は学者じゃない」男は枝を火にくべた。「間違ってるかどうかは、お前が学舎で調べろ。俺に言えるのは、今の形が、いちばん古い形じゃない。それだけだ」
「あんたは」僕は訊いた。「あんたは、その素の言葉を、読めるのか」
男は、しばらく黙っていた。
「読めん」やがて、そう言った。「俺にできるのは、覚えた型を何十年も繰り返すことだけだ。流す。集める。絞る。手が覚えた分しか、使えん。……お前は、読める。読めるってのは、型を自分で増やせるってことだ。俺なんかより、ずっと遠くまで行ける」
妬ましいな、と男は笑いの形だけで言った。目は笑っていなかった。
その顔を見て、僕は初めて気づいた。この男は、僕に教えているんじゃない。自分が行けなかった場所へ、僕を先に行かせようとしている。
昼、僕らは並んで街道を歩いた。男は半歩うしろを気の向くままについてくる。ときどき立ち止まっては、尾根を見た。夜と同じ目だった。
「王都には、賢いのが集まる」不意に、男が言った。「賢いのが集まれば、珍しいものを欲しがる奴も集まる。お前のような、素の言葉を読める奴を、標本のように欲しがる手合いだ。囲って、名を消して、都合よく使う。谷でも言ったろう。まずい形で、目立つな」
舞台の陰から僕の火を見て、書いて、消えた痩せた男の顔がよぎった。あれが、この男の言う手合いなのか。訊こうとして、やめた。詮索を嫌う男だ。
「学舎で素の言葉が読めると分かっても」男は続けた。「読めた、と口に出すな。その言葉は、お前が思うより高くつく」
夕方、道が二股に分かれた。右は王都へ。左は、痩せた山のほうへ登っていく。男は、左を見ていた。
「ここで別れる」
「あんたは、どこへ」
「訊くなと言ったろう」男は薄く笑った。谷で見た、乾いた笑い方だ。「達者でやれ。……二本目の使い方は、悪くなかった。片方で道を作るのを、忘れるな」
世話になった、と言いかけて、この男には似合わない気がして呑み込んだ。ボルツにも鉄輪にも、僕はいつも言うべきことを言い損なう。
男は左の道へ歩き出し、数歩いって振り返らずに片手を挙げた。それきり痩せた松の陰に紛れて見えなくなった。足音は、来たときと同じで聞こえなかった。
右の道を、僕は歩いた。
原初式。素の言葉。頭のなかで、その二つを何度も転がした。ずっと名前のなかったものに、名前がついた。それだけで、足の裏が少し軽くなった気がした。同時に、こうも思った。名前がついたということは、それを欲しがる者にとっても掴みやすくなったということだ。
外套の下で、銀の首飾りを一度だけ握った。空白の、へこんだ一文字。あれも、素の言葉のひとつなのかもしれない。
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