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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
冒険者編

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第78話「発つ前に」

 街道から領都へ戻って、三日が過ぎた。

 ボルダーオックスの分け前で、路銀はどうにか足りそうだった。あとは、いつ発つかを決めるだけだ。ひと月の猶予はまだ半分以上残っている。急ぐ理由はない。……はずだった。

 四日目の朝、宿の戸を叩く者がいた。

 ハロルドだった。あの家令だ。地味な外套は前と同じ。ただ、手に薄い革の筒を提げていた。

 「若君から、お預かりしました」

 差し出されたのは蝋で封じた書状だった。三つ塔の紋が蝋に押されている。受け取る手が、少し重くなった。ハロルドは用件だけを告げると、来た時と同じように人目を避けて去っていった。城の使いだと誰にも悟らせない足取りで。廊下の軋みひとつ残さなかった。


 封を切った。

 中は二枚だった。一枚は宮廷魔導師団あての推薦の書付。もう一枚はカイルの手紙だった。

 用件は短くまとめてあった。王都の王立学舎の門で、同封の書付を示せ。研究生の枠については宮廷の伝手を通して話を回してある。春の初めに枠が締まる前に着いておくこと。道順と、門で名を告げる相手の名。それだけが几帳面な字で並んでいた。飾りも、世辞もない。用の済んだ手紙だ。だが、その裏で家名が動いていた。宮廷の伝手、というのはそういうことだ。兄が一筆書けば、王都の門が無属性の流れ者にひとつ開く。捨てたはずの生まれの力を、僕はこうして借りて昇っていく。皮肉な話だった。今さら選り好みはできない。使えるものはなんでも使う。そう決めて、ここまで来た。

 最後に一行だけ、走り書きが添えてあった。

 「達者でな。妙な言い方だが、お前を見ていると、置き忘れた宿題を思い出す。どうにも気が済まん」

 僕はその走り書きを何度か読んだ。

 置き忘れた宿題。この人が悔いている、庭の隅の石のことだ。それが今、その石本人あての書状の隅に、そうと知らずに書かれている。おかしな話だった。笑えなかった。喉の奥が少しだけつかえた。

 紙を畳んで、革の筒に戻した。安い紙ではない。手に、まだ兄の字の重みが残っている気がした。

 ……行ける。

 母のいた場所へ通じる扉が、いま、この薄い紙のなかで開いていた。ずっと欲しかったものだ。手に入れて、僕は素直に喜べなかった。喜ぶより先に、思い出したことがあったからだ。

 発つなら、その前に。ひと月、ずっと逃げてきた用事があった。


 鉄輪は、ギルドの裏のいつもの安宿にいた。

 昼前だ。窓の向こうに四人が見えた。ダーグとクレイが卓で何か言い争っている。次の札の相談らしい。グランは隅で剣の手入れ。シェナは窓辺で繕い物をしていた。いつもの卓だ。この前は、ここで足を止めた。窓の明かりを見て、入れずに柱の陰へ退がった。別れを言いたくなくて、逃げた。

 今日は、逃げに来たのではない。

 戸を、押した。

 軋んだ音に、ダーグが顔を上げた。「よう。ちょうどいい。次の札なんだが――」

 「ダーグ」

 僕の声の何かで、ダーグの口が止まった。四人の目がこっちを向く。切り出す言葉は、ここへ来る道々いくつも考えてきた。そのどれも、いざとなると口の途中で崩れた。

 「……街を、出る」

 結局、それだけだった。

 しばらく、誰も何も言わなかった。クレイが卓の木札を指でとんとんと鳴らした。シェナの手が繕い物の上で止まっている。

 「王都か」

 最初に口を開いたのはダーグだった。問いではない。ただ、そうだろうな、という顔だった。

 「なんで、分かる」

 「分かるさ」ダーグは椅子の背にもたれた。「お前、ここんとこ、ずっと遠くを見てた。ここじゃないどこかをな。ああいう目をした奴は、たいてい、いなくなる」

 僕は返す言葉がなかった。見抜かれていた。別れを切り出すのにあれだけ悩んだのが、ばからしくなるくらいに。ダーグは、僕が思っているよりずっと人をよく見ている。頭が回るというのは、剣のことだけではないらしい。


 「いつだ」クレイが訊いた。

 「近いうちに」

 「そうか」クレイは木札を置いた。それから僕の顔を、いつものように覗き込んだ。「あんたのあの火のことは、結局、最後まで訊けずじまいだったな」

 「……悪い」

 「いや、いい」クレイはめずらしく笑わなかった。「王都にゃ、賢いのが集まってるんだろ。あんたのあの、火の使い方じゃない火。あそこでなら、正体に気づく奴がいるかもしれん。そういうのがいる場所へ、行くんだな」

 心臓が静かに嫌な音を立てた。この男は勘がいい。核心のすぐ横を、何も知らずに素手で撫でていく。王都には、僕の火を見た者がいる。僕の秘密にいちばん近い者が、あの扉の内側にいる。クレイはそれを知らない。知らないまま、当てていた。

 「せいぜい、はぐらかし続けろよ」クレイは薄く笑った。今度は、いつもの笑い方だった。「あんたのそういうとこ、嫌いじゃなかった」


 シェナが繕い物を置いて立ち上がった。

 僕の前まで来て、少しのあいだ、迷うように見上げる。それから僕の肩の、古傷のあたりを指で軽く叩いた。

 「これ。王都の医者に、一度ちゃんと診てもらいな。ここじゃ、あたしの手が精いっぱいだった」

 「ああ」

 「無理は、しないの。……するんだろうけど」シェナは笑った。少し泣きそうな笑い方だった。「ほんと、世話の焼ける客だよ、あんたは」

 客、と言った。仲間とは言わなかった。それが、この四人の距離だった。踏み込まず、突き放さず。僕には、それがちょうどよかった。名も、過去も、火の中身も。誰も、無理にこじ開けようとはしなかった。


 グランは、最後まで何も言わなかった。

 ただ、手入れしていた自分の予備の短刀を、鞘ごと僕の前に置いた。使い込まれて、柄の革が手に馴染んでいる。要らない、と言いかけてやめた。この男の言葉は、いつも手のほうにある。断るのは、たぶん失礼にあたる。

 「……借りていく」

 そう言うと、グランはいつものように顎を引いた。今日は、それがいつもより少しだけ深かった。返さなくていい、という意味だと、なんとなく分かった。


 ふと、ボルダーオックスの時のことを思い出した。あの戦いで、僕はうしろを気にせず前だけを見て動けた。あんな戦い方は、独りではできない。誰かが背中を持っていてくれると、人はあんなにも遠くまで手を伸ばせる。それを教えたのが、この四人だった。教わったそばから、僕は出ていく。勝手なものだ。

 「餞別ってわけじゃねえがな」ダーグが立ち上がった。「達者でやれ。……ああ、それと」

 ダーグは少し言いにくそうに頭を掻いた。

 「もし王都でどうにもならなくなったら、戻ってこい。鉄輪はしばらく、この辺を根城にしてる。席は一つ、空けとく」

 空けとく。

 僕はその言葉を、うまく受け止められなかった。輪の外に、ずっと座ってきた。今日、僕はその輪に一度も入らないまま出ていく。それなのにこの男たちは、僕のための席を輪の中に一つ、残しておくと言う。

 入らずに出ていく奴のために、席を空けておく。そんな損な話があるか。……あるらしかった。少なくとも、この四人には。

 「……世話に、なった」

 ようやく言えた。ひと月、頭のなかでこねくり回した言葉より、ずっと短くて、ずっと本当だった。


 ギルドの受付にも寄った。

 あの女は、僕がしばらく街を離れると告げると、帳面から顔も上げずに「そうかい」と言った。それからぼそりと付け足した。

 「行くとこがあるってのは、いいことだよ。……真面目に働きな。どこへ行っても」

 僕は頷いた。この街の人は、みんな深くは訊かない。名を訊かれない。理由を問われない。名を捨てた僕には、それがいちばんありがたい土地だった。そのそっけなさに、何度救われたか分からない。その土地を、今日、出る。


 宿へ戻って、荷をまとめた。

 落書き帳。写しの束。ボルツの山刀。グランの短刀。母の銀の首飾り。持っていくものは、それだけだった。山刀と短刀を両手に握ってみた。二本を同時に振ったことはない。片手ずつ刃を持てば、届く先が変わる。風をどちらに乗せるかも選べる。慣れた山刀に、まだ馴染まない短刀。ちぐはぐだった。それでもいつか、こういう戦い方もできるかもしれない。今はまだ思いつきだ。二本を並べて、荷の底にしまった。五年、あちこちを流れてきたわりに、増えたものは少ない。増えたのは、たぶん、置いていくもののほうだった。荷は軽いのに、肩は重かった。手に持てるものより、持てないもののほうが、ずっと嵩張るらしい。

 その晩は、なかなか寝つけなかった。天井の染みを数えて、途中でやめた。数えても、眠くはならなかった。

 翌朝、まだ暗いうちに僕は領都の門をくぐった。

 東の空が白みはじめている。門番があくびをしながら通行の証に目を落として、顎で通した。この門を逆から入った日のことは、もう遠く思えた。あの時は、城の依頼札に指を伸ばすのさえ怖かった。今は、迷わず外へくぐっていく。振り返ると、城の三つの塔が朝もやの向こうに立っていた。あの奥に、兄がいる。何も知らないまま、僕の背を書状の一行で押した兄が。いつか、あの塔の下へ、本当の名で帰る日は来るのだろうか。来ないかもしれない。今は、分からなかった。

 王都は遠い。歩いて幾日もかかる。その先に学舎があって、書庫があって、封印庫がある。母のいた場所へ、扉がいくつも並んでいる。手前のものから、一つずつ開けていくしかない。

 それから――たぶん、あいつがいる。火を使う、あの娘が。名は、まだ呼ばない。ずっと、そうしてきた。あいつは、僕の火も風も見ている。会えば、面倒になる。分かっている。分かっていて、少しだけ、会うのが楽しみな自分もいた。厄介な話だ。今は考えないことにした。

 首飾りを、外套の下で一度だけ握った。冷たい銀が、掌のなかでいつものように少しずつ温くなる。

 母さん。今度は、ちゃんと、そこまで行く。

 足を前へ出した。別れの練習は、これで一つ済んだ。次に誰かへ背を向けるときは、もう少しうまくやれるだろうか。……たぶん、やれない。それでいい気も、少しした。

 朝の道は、まだ冷たかった。歩くうちに、じきに温くなる。たぶん、そういうものだ。

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