第9話「読めない言葉」
森を抜けて、村の灯りが見えた時、僕はその場に膝をつきそうになった。
日は、とっぷりと暮れていた。肩の傷はずきずきと脈打ち、足はもう、自分のものじゃないみたいに重い。それでも——帰ってこられた。誰も帰らないと言われた森から、二度目も、生きて。
村のはずれで、僕を見つけたのは、マルタだった。
青ざめた僕の顔と、血の滲んだ肩を見るなり、彼女は短く息を呑んで、何も訊かずに廃館まで肩を貸してくれた。傷を湯で洗い、薬草を擂り潰して当て、布を巻いていく。皺だらけの手は、驚くほど手際がよかった。
「森へ、行ったね」
咎める声では、なかった。
「……うん」
「莫迦な子だ」
そう言いながら、マルタの手は、どこまでも優しかった。
しばらくして、ボルツが顔を出した。戸口にもたれて、巻かれた僕の肩を、じろりと見る。
「生きてるな」
「うん」
「無理だと思ったら引き返せ、と言ったはずだが」
「……引き返して、きたよ。ちゃんと」
ボルツは、ふん、と鼻を鳴らした。怒っているようにも、呆れているようにも見えた。けれど、出ていきしなに、ぽつりと言った。
「次に行く時は、傷が塞がってからにしろ。死人は、村の役にも立たねえ」
——それは、行くな、ではなかった。次があることを、もう、認めてくれている言葉だった。
*
傷が癒えるまでの数日、僕はずっと、机に向かっていた。
ろうそくの灯りの下、落書き帳を広げる。書き写せたのは、たった三つの螺旋。遺跡の壁を走っていた、あの青白い言葉の、ほんの欠片だ。
僕はそれを、何度も、何度も、見つめた。
ふと、僕は、帳面のいちばん古いページを繰った。
まだアークライト邸にいた頃の——六つか七つの僕が、わけもわからず書きつけた、子供の落書き。その中に、こんな一行があった。
『炎の前に、何かがある。みんな炎しか見ていない。』
兄上が魔法で火を出すのを見て、書いたものだった。火が生まれる、ほんの一瞬前。その"何か"が、僕にはずっと、気になって仕方がなかった。誰に言っても、笑われたけれど。
そして今、目の前にある、遺跡の螺旋。
背筋が、ぞくりとした。
この螺旋は——止まっていない。
円の中を、線がぐるぐると、中心へ巻いていく。これは、形じゃない。動きだ。何かが、外から内へ、渦を巻きながら、集まっていく。その様を、描いている。遺跡の壁の光も、そうだった。筋を伝って、流れていた。
炎の前にある、"何か"。みんなが見ていない、その手前。
まさか、それを——この螺旋は、描いているんじゃないか。
わからない。読めない。でも、僕は、震える手で、帳面にそう書きつけた。子供の落書きと、遺跡の言葉。二つが、長い時を越えて、繋がろうとしている気がした。
*
そして、もう一つ。気づいたことがあった。
僕は、母の首飾りを、写し取った三つの螺旋の隣に、そっと並べてみた。
ひとつ目の螺旋。違う。ふたつ目。違う。三つ目——
手が、止まった。
三つ目の螺旋が、首飾りの文様と、寸分たがわず、同じだったのだ。
壁にびっしりと刻まれていた、無数の螺旋。あれが言葉の連なりなら、一つひとつの螺旋は、きっと、文字の一つひとつ。そして、母の首飾りは——その中の、たった一文字と、同じ。
つまり、この首飾りは、ただの鍵じゃない。
あの言葉の中の、ひとつの「言葉」なんだ。
何を意味する言葉なのか。誰の、何を指す——もしかしたら、名前のような、何かなのか。
母さんは、いったい、何者だったんだろう。
僕は、ろうそくを、ふっと吹き消した。
肩の傷は、もう、ほとんど痛まない。
次に森へ入る時は、灯りを持っていこう。あの暗い遺跡の奥を、隅々まで照らせるだけの灯りを。そして、壁の言葉を、一文字残らず、写し取ってくる。
母の首飾りと同じ螺旋が、どこに、何と並んで刻まれているのか。それを見つけられれば、きっと——
窓の外、東の森が、夜の闇に、深く沈んでいた。
その奥で、青白い言葉が、僕に読まれるのを、静かに待っている。そんな気がした。
---




