第8話「招く光」
一歩。
気づけば、僕の足は、崩れた石の穴の中へと、踏み込んでいた。
冷たい空気が、肌を撫でる。背後にあった森の夕暮れの気配が、すっと遠のいた。一歩進むごとに、外の世界が遠くなっていく。引き返すなら、今だ。何度も、頭の中で声がする。それでも、僕は足を止められなかった。
あの青白い光を、この目で、確かめたかった。
穴をくぐった先は、広い空間だった。
暗闇に目が慣れてくると、その広さに、息を呑んだ。天井は、見上げても影に溶けて見えない。床も壁も、外と同じ、継ぎ目のない滑らかな石。けれど——外とは、決定的に違うものがあった。
苔が、ない。蔦も、ない。土埃さえ、ほとんど積もっていない。気の遠くなるほど長い時を経たはずなのに、まるで、昨日まで誰かが手入れをしていたみたいに。外側はあれほど朽ちていたのに、一歩内側へ入った途端、時間が、止まっている。
ありえない。風雨を防ぐ地下ならともかく、崩れて外気の通うこの場所で、どうして。
そして、光だ。
壁の中を、青白い光が、細い筋になって走っていた。一本ではない。何十、何百という筋が、石の内側を、血管のように這っている。さっきまで暗かったその筋が、僕が近づくと、ひとつ、またひとつと、淡く灯っていく。
僕が止まれば、光も止まる。僕が歩けば、光も、僕を追うように先へ伸びていく。
偶然じゃ、ない。
胸元の首飾りを握ると、光の筋が、いっそう強く脈打った。——この光は、僕に、いや、この首飾りに、応えている。
壁を走る光の筋をよく見ると、ただ流れているのではなかった。
それは、あの螺旋を描いていた。円の中を巻く、螺旋。それが壁一面に、大小いくつも連なって、まるで——文字の列のように、整然と並んでいる。
ただの文様じゃない。これは、言葉だ。
誰かが、何かを、ここに書き記している。読めない。けれど、僕は直感で理解した。これは意味のある「並び」だ。でたらめな模様が、こんなに規則正しく続くわけがない。
僕は、震える手で落書き帳を開いた。この光が消えてしまう前に、一つでも多く、この螺旋の並びを写し取ろうとして——
その時、背後で、低い唸り声がした。
心臓が、凍りついた。
ゆっくりと振り返る。僕がくぐってきた穴の縁に——灰色の影が、蹲っていた。あの獣だ。森で僕を襲ったのと、同じ。いや、それより、ひと回り大きい。落ち窪んだ赤い目が、青白い光を照り返して、ぬらりと濡れて見えた。
しまった、と思った。爪痕は、すべて内から外へ向いていた。魔物は、奥から逃げてくる。つまり——この入口のあたりは、逃げ込んできた魔物の、巣になっていてもおかしくなかったのだ。
観察を見落とした。その代償が、これだ。
獣が低く身を沈めた。飛びかかる構え。
逃げ場はない。背後は、光る石の壁。手元には、森で拾った頼りない木の棒が一本きり。森でやったように勢いを利用する——だが、相手は警戒している。さっきのように、まっすぐ飛び込んではこない。
考えろ。力で勝てないなら、何で勝つ。
僕の目が、さっき見たものを、捉えていた。光は、首飾りに応える。
僕は咄嗟に、握った首飾りを、獣の足元めがけて、思いきり突き出した。
その瞬間——獣の真下の床に走る螺旋が、ぶわっと、目も眩むほど強く発光した。首飾りに引かれた光が、ちょうど獣を、下から照らし上げる形になったのだ。
突然の閃光に、獣がたじろぎ、赤い目を細めた。ほんの、一瞬。
その隙を、僕は逃さなかった。獣の脇をすり抜け、穴へ——外へ向かって、転がるように駆け抜けた。肩の傷が悲鳴を上げる。構うものか。背後で、獣が吠え、追ってくる気配。
穴を抜けた瞬間、僕は振り返りもせず、来た道に巻きつけた麻紐の印だけを頼りに、めちゃくちゃに走った。
どれだけ走っただろう。
いつのまにか、獣の足音は、聞こえなくなっていた。森の浅いところまで戻ると、もう追ってこない。——あの獣も、外の明るいほうへは、出たがらないのだ。やはり、何かに追われて、内側から逃げてきた口らしい。
僕は、木の根元にへたり込んで、しばらく荒い息をついた。生きている。今日も、どうにか。
手のひらの中で、首飾りは、まだ、ほんのりと温かかった。
怖かった。死ぬかと思った。それなのに——胸の奥で、別の何かが、確かに燃えていた。
あの光は、僕に応えた。あの螺旋は、言葉だった。誰も読めない、誰も知らない、世界の裏側に隠された、言葉。
母さんは、何者だったんだろう。どうして、その鍵を僕に遺したんだろう。
落書き帳を開く。書き写せたのは、たった三つの螺旋だけ。それでもそれは、確かに、この世界の誰も持っていない「最初の一文字」だった。
——次は、もっと備えて、もっと奥まで。
あの言葉の、続きを読みに行く。
落ちこぼれと笑われた僕が、世界の誰も知らない言葉を、たった独りで、読み解こうとしていた。
面白いと思っていただけたら、ブックマーク・評価・感想をいただけると、今後の執筆の励みになります!




