第7話「螺旋の壁」
引き返せ。ボルツの声が、頭の中で響いていた。
無理だと思ったら、迷わず引き返せ——今が、まさにその時だ。肩の傷は焼けるように痛むし、陽はもう、木々の間で傾きはじめている。賢い選択は、ひとつしかない。来た道を、麻紐の印を辿って、村へ帰ること。
わかっている。わかっているのに、僕の足は、石の壁のほうへ向かっていた。
胸元の首飾りが、熱いのだ。母の形見の、銀の首飾り。遺跡に近づくほど、その熱は強くなる。まるで、ここへ来い、と呼ばれているみたいに。
せめて、ひと目だけ。
そう自分に言い訳して、僕は壁に近づいた。
近くで見上げると、その壁は、ますます「おかしかった」。
苔と蔦に覆われてはいる。けれど、その下の石は、ひとつひとつが四角く切り出され、寸分の隙もなく積み上げられていた。継ぎ目に、漆喰のようなものは見当たらない。ただ、石と石が、吸いつくように噛み合っている。
こんな石組みを、僕は見たことがなかった。アークライト邸の、どっしりした城壁とも違う。これは——技術が、違う。
傷のない右手を、そっと壁に当てた。ひやりと冷たい。そして、長い年月、風雨にさらされてきたはずなのに、その表面は、奇妙なほど滑らかだった。
手を滑らせていくと、指先が、何かの溝に引っかかった。
苔だ。僕は、夢中でそれを剥がした。爪の間に土が入るのも構わず、緑の絨毯を、手のひらで擦り落としていく。
現れたのは——文様だった。
石の表面に、浅く、けれど確かに刻まれた、線。円。その円の中で、細い線が幾重にも巻きながら、中心へと向かっていく——
螺旋だ。
心臓が、跳ねた。震える手で、僕は服の下から首飾りを引き出した。銀の盤に刻まれた、見慣れた文様。円の中の、螺旋。
それを、壁の刻印に、そっと並べる。
——同じ、だった。
大きさは違う。けれど、線の巻き方も、円との収まり方も、寸分たがわず、同じものだった。母の首飾りと、誰も帰らないという古代の遺跡が、まったく同じ印を、刻んでいる。
なぜ。
母は、この国の人ではなかった、とハンナは言った。それ以上は、何も知らないと。
なら、この螺旋は、何だ。異国の装飾品が、どうして、こんな森の奥の遺跡と、同じ印を持っている。
手の中の首飾りが、じん、と熱を増した。痛いほどではない。けれど、確かに、応えるように。まるで、壁の螺旋と、首飾りの螺旋が、見えない糸で繋がって、呼び合っているみたいだった。
僕は、壁伝いに歩いた。傷ついた肩をかばいながら、苔の下の螺旋を指でなぞって、それが続くほうへ。
やがて、壁の一部が、大きく崩れているのに行き当たった。
石が崩落し、ぽっかりと、黒い口が開いている。遺跡の内側へと続く、穴。そこから、ひんやりとした空気が、ゆっくりと流れ出していた。地下の井戸のような、淀んだ、古い匂い。
その崩れた縁に、僕は、あの傷を見た。
爪痕。森の木の幹に走っていたのと、同じものだ。深く、鋭く、石をも削る引っ掻き傷。けれど——向きが、奇妙だった。
傷は、すべて、内から外へ向かって、走っていた。
まるで、何かが、この穴の中から、必死で外へ——森のほうへ、逃げ出そうとしたみたいに。
僕は、ぞくりとした。森の魔物が、奥から手前へ押し出されてくる理由。その答えが、この黒い穴の、さらに奥にある。そんな気が、した。
ここまでだ。
今度こそ、僕は自分に言い聞かせた。肩は痛む。陽は傾いた。中がどうなっているかも、わからない。腕利きの猟師でさえ帰らなかった場所だ。これ以上踏み込むのは、賢さではない。ただの無謀だ。
僕は、落書き帳を取り出した。震える手で、壁の螺旋を、できるかぎり正確に写し取る。穴の位置も、爪痕の向きも。——次に来る時のために。そう、次は、必ず備えてくる。
帳面を閉じ、首飾りを服の下に戻そうとした、その時だった。
穴の奥の、暗闇の中で。
ぽう、と——小さな光が、灯った。
炎の色ではない。松明でも、ランプでもない。青白い、見たこともない光だった。それは、ひとつ、またひとつと、奥の暗がりで、静かに数を増やしていく。まるで、ずっと眠っていた何かが、僕の足音に——いや、首飾りの熱に、ゆっくりと目を覚ましたみたいに。
胸元の螺旋が、これまでで一番強く、熱を放った。
僕は、息を呑んで、その光を見つめた。怖い。怖いのに、足が、動かない。逃げるためではなく——もっと、見ていたくて。
誰も帰らない、と人は言う。
でも、この光を見た者は、きっと、一人もいなかったはずだ。
——ここに、答えがある。
僕が無属性に生まれた理由も。母が、誰だったのかも。森が壊れていく理由も。きっと、全部。
肩の痛みも忘れて、僕は、その青白い光のほうへ、一歩、踏み出していた。
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