第6話「黒い森へ」
森へ行くと決めてから、僕はすぐには動かなかった。
無属性で、非力で、魔法ひとつ使えない。そんな子供が、何の備えもなく魔物の森に踏み込めば、待っているのは死だけだ。それくらいは、わかっていた。
だから僕は、いつものように——まず、観察することから始めた。
数日かけて、村人たちから森の話を集めた。どの辺りで魔物が出るか。どんな獣がいるか。昔、森へ入った者がどこまで行って、どこで消えたか。断片を、落書き帳に書き溜めていく。曖昧な噂も、十も集めれば、輪郭が見えてくる。
わかったのは、こうだ。森の浅いところは、まだ魔物が少ない。危険なのは奥。そして——魔物は、ここ最近、明らかに奥から浅いほうへ"押し出されて"きている。
「やめとけ」
森の入り口で枝を削っていた僕に、ボルツが声をかけてきた。
「お前さんが森に何を期待してるのか知らんが、あそこは墓場だ。腕利きの猟師でも、奥へ行きゃ帰らねえ」
「……奥に何があるか、ボルツは知ってるの」
彼は少し黙って、それから低く言った。
「昔の遺跡だ、ってのは聞く。だが、確かめた奴はみんな死んだ。確かめられた話は、つまり一つもねえってことだ」
僕は、削った枝の先を見た。我ながら、頼りない手製の槍だ。
「それでも、行くのか」
「うん」
ボルツは、長いあいだ僕を見つめていた。怒鳴るかと思った。けれど彼は、ただ短く息を吐いて、こう言っただけだった。
「……お前さんの命だ。好きにしろ。ただし、無理だと思ったら、迷わず引き返せ。死んだら、何も持って帰れねえぞ」
それは、止める言葉ではなかった。生きて帰るための、たった一つの助言だった。
*
翌朝、僕は森に入った。
一歩進むごとに、腰の麻紐を木の幹に巻きつけ、印を残していく。帰り道を見失わないために。魔法が使えない僕にできるのは、こういう地道な工夫だけだ。賢さは、力の代わりにはならない。でも、命綱の代わりにはなる。
森の中は、奇妙に静かだった。
鳥の声がしない。虫の音もない。あるのは、自分の足音と、心臓の音だけ。木々の幹には、何かに引っ掻かれたような深い傷跡が、いくつも走っていた。地面には、白く乾いた小動物の骨。——この森は、どこか"壊れて"いる。直感が、そう告げていた。
その時だった。
背後で、枝を踏む音がした。
振り返ると——いた。あの、灰色の獣。村を襲ったのと同じ、犬ほどの大きさの魔物。だが、こちらのほうが、ひと回り大きい。落ち窪んだ赤い目が、まっすぐ僕を捉えていた。
逃げろ、と本能が叫んだ。同時に、それが無駄だともわかっていた。脚の速さで、獣に敵うはずがない。
獣が、地を蹴った。
僕は咄嗟に、手製の槍を突き出した。——だが、非力な子供の一突きだ。獣はそれを牙で噛み砕き、勢いのまま、僕を吹き飛ばした。
背中から、地面に叩きつけられる。息が止まった。肩に、焼けるような痛み。爪が、浅く抉ったのだ。
ああ、ここで死ぬのか。
頭の隅で、妙に冷静に、そう思った。
——でも、その冷静さが、僕を救った。
倒れた僕の手のすぐ横に、削りかけの枝が落ちていた。槍にしそこなった、ただの尖った木の棒。獣がもう一度飛びかかってくる、その刹那。僕は棒を掴み、力ではなく、ただ"角度"だけを合わせて、突き出した。
自分から刺しに行くのではない。飛び込んでくる獣の、勢いそのものを、切っ先に乗せる。
ぐじゅり、と鈍い感触。獣の喉に、棒が深く突き刺さっていた。獣の重さと速さが、そのまま刃になった。
僕の力では、ない。獣自身の勢いだ。
——力がなくても、相手の力を、利用すればいい。
獣は、痙攣しながら、動かなくなった。
僕は、肩を押さえて、荒い息のまま、しばらく動けなかった。生きている。手が、震えていた。怖かった。本当に、死ぬかと思った。
引き返すべきだ。ボルツの言葉が、頭をよぎる。無理だと思ったら、迷わず引き返せ。今が、まさにその時だ。
立ち上がり、来た道へ踵を返そうとした、その時——
僕は、気づいた。
倒れた獣の、その向こう。木々が不自然に途切れた先に、何か巨大なものが、苔と蔦に覆われて、聳えていた。
石。組まれた、石の壁。明らかに、自然のものではない。人の——いや、人ならざる何かの手によって、はるか昔に築かれた、巨大な建造物。
遺跡だ。
誰も帰らないと言われた、森の奥の古代遺跡。それが、こんな浅いところにまで、半分崩れて顔を出していた。いや、違う。森が痩せて、奥のものが、こちらへせり出してきているのだ。
ふと、胸元が、温かくなった。
母の形見の、銀の首飾り。それが、服の下で——確かに、ほんのりと熱を持っていた。遺跡に近づくほど、その熱が、強くなる。
なぜ。どうして、母の形見が。
痛む肩も、忘れていた。僕は、吸い寄せられるように、その石の壁を見上げていた。
——ここに、何かがある。
僕の知らない、世界の"何か"が。
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