第5話「生きる、ということ」
翌朝から、僕の戦いが始まった。
相手は、魔物ではない。もっと単純で、もっと容赦のないもの——空腹と、寒さだ。
わかったことが、ひとつある。
ここでは、誰も僕を助けない。けれど、誰も僕を笑わない。だから、惨めさに浸っている暇すらなかった。朝が来れば腹が減り、夜が来れば凍える。それを、自分でどうにかするしかない。ただ、それだけの世界だった。
不思議なもので——その単純さが、僕には少しだけ、息がしやすかった。
最初の数日は、ひどいものだった。
薪を拾っても、火の熾し方を知らない。火打石を打つ手元すら覚束ない。村の井戸の水を汲むのにも、釣瓶の使い方がわからず、何度も縄を取り落とした。貴族の子として育った僕は、「自分で生きる」ということを、何ひとつ教わってこなかったのだ。
けれど、僕には一つだけ、昔から変わらない癖があった。
——観察すること。そして、書きとめること。
村の年寄りが火を熾すのを、僕は飽きずに眺めた。火打石を当てる角度。火口にする枯れ草の乾き具合。風の通し方。それを、落書き帳の余白に書きつける。失敗するたびに、何がいけなかったかを書き足す。三日目の夜、僕は初めて、自分の手で火を熾した。
たったそれだけのことで——廃館の暗がりで、僕は声を上げて笑った。泣きそうな顔で、笑っていた。
魔法じゃない。誰にでもできることだ。それでも、僕が、僕の力で、闇に灯した最初の火だった。
*
マルタという、村の老婆がいた。
初日に夕食を運んでくれた女の人だ。僕が井戸で四苦八苦しているのを見かねて、釣瓶の使い方を教えてくれた。お礼に何かできることはないかと訊くと、彼女は笑って、「あんた、字が読めるのかい」と言った。
フェルローズには、字を読める者がほとんどいない。代官のボルツくらいだ。だから、王都から届く通達も、行商人の証文も、村人たちは中身がわからないまま判を押している。
僕は、村人たちの代わりに、書状を読んでやることにした。畑仕事も力仕事も、無属性で非力な僕には満足にできない。けれど、これならできる。
最初は遠巻きにしていた村人たちが、一人、また一人と、紙切れを手に僕の廃館を訪ねてくるようになった。礼にと、芋を数個、卵をひとつ、薪を一束。——施しではない。労働の対価だ。
生まれて初めて、僕は「役に立つ無属性」になった。
ボルツが、いつだったか、ぽつりと言った。
「坊主。お前さん、魔法は使えねえが……頭は、使えるみてえだな」
それは、この土地に来て初めて、誰かが僕に向けてくれた、評価らしい評価だった。
*
けれど、フェルローズの平穏は、薄氷の上にあった。
ある夕暮れ、村のはずれで悲鳴が上がった。駆けつけると、東の森から這い出してきた魔物が——犬ほどの大きさの、灰色の毛に覆われた獣が、家畜に襲いかかっていた。男たちが鍬や槍で追い払ったが、若い牧夫が一人、腕を深く抉られた。
ボルツが、舌打ちしながら言った。
「最近、森の魔物が増えてやがる。前はこんなに出てこなかった。……森の奥で、何かが起きてんのかもしれねえ」
森の奥。
誰も帰らない、古代の遺跡のある方角。
その夜、僕は廃館の窓から、東の黒い森を見つめていた。
村は、ゆっくりと死にかけている。痩せた畑。増える魔物。閉ざされた森のせいで、東へ抜ける交易路も、とうに途絶えている。このままでは、いずれフェルローズは立ち行かなくなる。
そして——誰も足を踏み入れない、あの森の奥に、答えがある気がした。魔物が増える理由も。誰も帰らない遺跡の正体も。
いや。それだけじゃない。
僕は、母の形見の首飾りを握りしめた。円の中に絡む、螺旋の文様。なぜか、あの遺跡の話を聞いてから、この文様が、頭から離れない。まるで——同じ"何か"を指し示しているみたいに。
落書き帳を開く。火を熾せた日から、ページはまた少しずつ、文字で埋まりはじめていた。
最後の行に、僕は書いた。
『生き延びるためにも、知るためにも、森へ行く。』
ペンを置き、僕は窓の外の森を見た。
怖くないわけがない。誰も帰らないのだ。無属性で、非力で、魔法ひとつ使えない僕が、生きて戻れる保証なんて、どこにもない。
それでも。
屋敷で"いないもの"として朽ちていくくらいなら、僕は、自分の足で、その謎の中へ歩いていきたかった。
——こうして、落ちこぼれの貴族だった少年の、本当の物語が、ようやく始まる。
誰も知らない森の奥で。世界が間違いに気づくより、ずっと前に。
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