第10話「遺跡の心臓」
肩の傷が塞がるのを待って、僕は支度を整えた。
まず、灯り。遺跡の奥は、墨を流したような暗闇だ。あの青白い光は、僕が近づかなければ灯らない。隅々まで照らすには、自分の火がいる。僕は森で集めた松脂の多い枝を束ね、布を巻いて、松明をいくつもこしらえた。火打石の使い方は、もう、手が覚えている。
それから、ボルツに頼んで、刃こぼれした古い鉈を一本、譲ってもらった。書状を代読してやる、その駄賃のつけにして。木の棒よりは、よほどましだ。獣と斬り合うつもりはない。けれど、何かを切り開く道具は、きっと要る。
マルタが、干した芋と、水の革袋を、黙って荷に入れてくれた。
「……いってきます」
二度目の——いや、三度目の森は、最初の時ほど、怖くはなかった。怖さの中身が、わかっているからだ。
遺跡の、崩れた入口。あの大型の獣は、やはり、いた。
暗がりの奥で、赤い目が、ぎらりとこちらを向く。前なら、それで終わりだった。けれど今日の僕の手には、燃える松明がある。
あの獣は、外の明るいところへは出たがらない。光を、嫌う。——森で逃げ帰った時に、確かにそう見た。
僕は、松明を高く掲げ、ゆっくりと、しかし臆さず、踏み込んだ。
炎が、暗い穴の中を、橙色に照らし出す。獣は、低く唸り、後ずさった。一歩、また一歩。そして、火の届かない奥の暗がりへと、身を翻して逃げていった。
——力で、退けたんじゃない。あれが何を嫌うかを、知っていただけだ。
松明の灯りで照らすと、遺跡の内部は、前に見たよりも、ずっと広かった。
壁を走る青白い光の筋が、僕の歩みに合わせて、次々と灯っていく。けれど今日は、それを、ただ眺めるのをやめた。今日は、観るのだ。
光の筋には、向きがあった。無数の筋が、すべて、同じ方向へ——奥の、ひとつの場所へと、流れ込むように伸びている。まるで、細い川が集まって、大河になるみたいに。
この流れの先に、何かがある。
僕は松明をかざし、壁の螺旋を帳面に写しながら、光の流れを辿って、奥へと進んだ。一文字、また一文字。読めない言葉を、それでも、ひたすらに書き留めながら。
長い通路を抜けた先で、僕は、足を止めた。
松明を、高く掲げる。
そこは、円い、大きな広間だった。天井は高く、闇に消えている。そして——床の一面に、それは、刻まれていた。
螺旋だ。
部屋いっぱいに広がる、たった一つの、巨大な螺旋。壁を流れてきた青白い光は、すべて、この床の螺旋へと注ぎ込み、外から内へ、中心へと、ゆっくり渦を巻きながら、流れていた。光が、脈打っている。まるで、生き物の、鼓動みたいに。
円の中を巻く、螺旋。——母の首飾りと、同じ形だ。それが、部屋そのものの大きさで、僕の足元に広がっている。
胸元の首飾りが、焼けつきそうなほど、熱かった。
吸い寄せられるように、僕は、渦の中心へと歩いた。
螺旋の、いちばん奥。光のすべてが集まる、その一点に——低い石の台が、ひとつ、据えられていた。
台の上には、浅い、円いくぼみ。
僕は、息を呑んだ。そのくぼみの底には、見覚えのある文様が——円の中の螺旋が、彫り込まれていたのだ。
大きさも、形も。
僕は、震える手で、首飾りを服の下から引き出した。それを、くぼみに、近づけてみる。
——合う。
寸分の狂いもなく、母の首飾りは、この台のくぼみに、収まる形をしていた。まるで、最初から、ここに置かれるために、作られたみたいに。
ここに、これを、置けば。何かが、起きる。
理屈ではなく、ただ、そう、わかった。
けれど、僕は、手を止めた。
これが何なのか、置いたら何が起きるのか、僕は何も知らない。神代の遺物だ。迂闊に触れて、無事で済む保証など、どこにもない。賢さは、ここでも、逸る心を抑える手綱になる。——もう一度、よく調べてからだ。
そう思って、首飾りを引っ込めた、その時だった。
ずう……ん、と。
足の裏から、腹の底へ。低い、地鳴りのような震えが、伝わってきた。
遺跡の、さらに奥。この心臓よりも、もっと深いところから。
はっとして、僕は、渦の中心から、奥の闇を見た。
青白く脈打っていた光が、一瞬、ちらり、と明滅する。そして、はるか奥の暗がりに、僕は、見てしまった。
赤い、光。
この遺跡の、どこにもなかった色。淀んで、濁った、不吉な赤。それが、深い闇の底で、ぬめりと息づいていた。
魔物たちが、内から外へ、必死で逃げ出していた理由。
——あれだ。
あの赤い何かから、みんな、逃げていたんだ。
松明の火が、僕の手の中で、頼りなく、揺れた。
青い言葉の眠る、遺跡の心臓。その、さらに奥の底で。
何かが、ゆっくりと、目を覚まそうとしていた。
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