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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
冒険者編

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第76話「推薦状」

 言伝を届けて、五日が過ぎた。

 返事は来ないものと思っていた。領主家の跡取りが、酒場の言伝ひとつにいちいち動くはずもない。そう決めつけて、僕はまた別の札を剥がした。名も知らぬ魔物を狩り、傷を作り、宿へ帰る。そういう日を二日ばかり重ねた。頭を空にするには、体を使うのがいちばんだ。考える暇があると、ろくなことにならない。二匹目の相手には、油断して脛を噛まれた。深くはない。だが、その痛みが頭のなかの兄を追い出してくれた。痛みというのは、たまに役に立つ。

 六日目の朝。宿の戸を叩く者がいた。

 ハロルドだった。あの家令だ。今日は供も連れていない。地味な外套を着て、目立たない身なりをしている。人目を避けてきたのだと、ひと目で分かった。

 「若君が、お会いになりたいそうです。城ではなく、街のほうで」

 城ではなく。その言い方に、僕は身構えた。人に聞かれたくない話だということだ。城には耳が多い。それを避けること自体が、もう、ひとつの答えだった。


 連れていかれたのは、城下の外れの古い聖堂だった。

 平日の昼で、人はいない。埃と、消えた蝋の匂いがする。祭壇の前の長椅子に、カイルが座っていた。今日は家紋の外套を着ていない。ただの身なりのいい旅人にしか見えなかった。僕を見て、兄は軽く手を挙げた。

 「呼び立てて、すまん。城だと、耳が多くてな」

 僕は隣には座らず、二歩ほど離れて立った。近づきすぎない。染みついた癖だ。

 「言伝を聞いた」カイルは、まっすぐ本題に入った。「もう少し詳しく、と言ったな。いい心がけだ。うまい話には、たいてい裏がある。それを疑うのは正しい」

 「……それで」

 「王都の、王立学舎だ」

 兄はそう言った。僕の心臓が、ひとつ大きく鳴った。


 王立学舎。名前だけは、知っていた。

 この国の魔法使いが、腕と知恵を磨く場所。貴族の子や、選ばれた才の集う場所だ。無属性の余りものには、一生縁のないところだと思っていた。だが、その先に王城がある。王城の奥に封印庫がある。母の一族の記録が眠る場所だ。ずっと、そこを目指してきた。まさか、こんな形で扉が開くとは思わなかった。

 「正規の入学は、無理だ」カイルは続けた。「金も、家名も、推薦も要る。お前には家名がない。だが、別の口がある。研究生の枠だ」

 「研究生」

 「珍しい才を、学問の種として囲う枠だ。正規の生徒とは扱いが違う。下働きに近い。掃除も雑用もやらされる。聴講は許されるが、身分は低い。見下す者もいるだろう。それでも、中には入れる。書庫にも講義にも近づける」

 書庫。その言葉に、指先が、わずかに動いた。

 学舎の書庫には、この国中の魔法の知識が集まると聞く。古い巻物も、失われかけた術も。そこは、王城の封印庫そのものではない。だが、封印庫へ通じる道の、いちばん手前だ。学舎で研究生として名を上げれば、その先の資格に手が届く。オズが、そう言っていた。閲覧を許されるのは、王族か、宮廷の魔導師か、学舎の上の研究生くらいだ、と。

 「ひとつ、確かめさせてくれ」カイルは、僕の目を見た。「ギルドの台帳じゃ、お前は無属性で登録されている。推薦する相手のことは、調べさせてもらった。悪く思うな」

 僕は、答えなかった。心臓が、嫌な鳴り方をした。家の手が、もう、そこまで伸びていたのか。

 「無属性のはずが、あの鋭い火を使う。この国の理屈じゃ、あり得ん話だ。だが、俺はこの目で見た。……だからこそ、学舎の連中が喉から手が出るほど欲しがる。……」

 珍しい火。喉から手が出るほど。谷の男の声が、頭をよぎった。学問のために欲しがる者と、別の使い道のために欲しがる者。同じ顔で近づいてくる。見分けは、つかない。あの言葉が、こんなに早く現実になるとは。


 「その推薦を、あんたが書く、と」

 「書ける。宮廷魔導師団に伝手がある。俺の名なら、話は通る。……ただし」

 カイルは、そこで、声を落とした。

 「王都は、こことは違う。人の値打ちを、生まれと家柄で量る場所だ。無属性の研究生など、下の下に見られる。守ってやれる範囲にも限りがある。学舎のなかで何が起きても、俺はそう近くにはいない。宮廷は、伏魔殿だ。妙な連中もうろついている。珍しい才を囲い込みたがる手合いがな」

 妙な連中。囲い込みたがる手合い。

 その言い方に、僕はあの痩せた長衣の男を思い出した。帳面を手に、修羅場のなかで僕だけを見ていた男。あの手のものが、王都にはいくらでもいるということだ。扉の先は、光の当たる場所であると同時に、いちばん見られたくない目の集まる場所でもある。


 僕は、しばらく黙っていた。

 差し出されているものは、大きすぎた。ずっと欲しかった扉が、いま、目の前で開こうとしている。あとは、頷けばいい。それだけのことだ。

 だが、頷けなかった。

 王都は、遠い。この街を離れることになる。鉄輪の連中とも、あの受付の女とも、別れることになる。ようやく、輪のすぐ外に座れるようになった。その場所を、また後ろに置いていく。名を捨てたあのころなら、迷いもしなかった。今は、少しだけ惜しいと思う自分がいる。

 それに、と思う。あの学舎には、たぶん、あいつがいる。

 火を使う、あの娘だ。名は、口にしない。ずっと、そうしてきた。あいつは前に、王都の学舎へ行くと言っていた。もう着いているころだろう。あいつは、僕の火を見た。風も見た。無属性のはずの僕が二つの魔法を操るのを、あの目でしっかり見ている。この国で、僕の秘密にいちばん近い人間が、よりにもよって、あの扉の内側にいるのだ。

 厄介だ、と思った。それから、ほんの少しだけ、違う何かも胸をかすめた。それが何なのかは、考えないことにした。今は、そんな場合ではない。

 「なぜ、そこまでする」

 気づけば、僕はそう訊いていた。「あんたには、なんの得もない。名も知らぬ冒険者に、家の名を貸すんだ。危ない橋だろう」

 カイルは、しばらく祭壇を見上げていた。


 「才ってのは、置き場所を間違えると、腐る」

 やがて、兄はそう言った。

 「俺は、それを一度見ている。すぐ近くでな。磨けば光ったはずの石が、庭の隅で埃をかぶって、いつのまにか消えた。誰も拾わなかった。俺も、拾わなかった。今でもそれを悔いている」

 庭の隅。その言葉に、僕は息を止めた。

 この人は、知らずに言っている。庭の隅で埃をかぶっていた石が、今、目の前に立っていることを。拾わなかったと悔いる相手が、拾われないまま独りで光り方を覚えたことを。何も知らない。知らないまま、悔いている。

 「二度と、あんな思いはしたくない。それだけだ。お前を見ていると、放っておけなくなる。理由は、うまく言えん。すまんな、湿っぽい話で」

 兄は、ばつが悪そうに、首の後ろを掻いた。

 お前を弟のようだ、とは、この人は言わない。言えるはずもない。弟は死んだと思っているのだから。だが、その死んだ弟の面影を目の前の他人に重ねて、この人は手を伸ばしている。当の弟が、すぐ目の前で、それを黙って聞いている。こんな残酷な話はない。僕は、奥歯を強く噛んだ。


 「……少し、考える時間をくれ」

 やっと、そう返した。

 「かまわん」カイルは頷いた。「だが、そう長くは待てん。学舎の枠は、年に一度、春の初めに締まる。それを逃せば、また一年だ。急かすようだが、ひと月のうちに、返事をくれ」

 ひと月。思ったより、短かった。だが、かえってはっきりした。逃げる時間は、もうそう残っていない。

 聖堂を出るとき、カイルは僕の肩に軽く手を置いた。ほんの一瞬だ。東の山でも、同じことをされた。ボルツの、あの無骨な手を思い出させる手つきだった。

 「無理は、するな。お前が思ってるより、お前を気にかけてる奴はいる」

 その言葉に、僕は何も返せなかった。返せば、声が崩れそうだった。


 城下へ戻る道で、僕はギルドの前を通った。

 窓の向こうに、鉄輪の四人が見えた。ダーグが何かを言って、シェナが笑っている。クレイがそれに口を挟み、グランは黙って杯を傾けている。いつもの、あの卓だ。僕の居場所ではない。だが、居場所のすぐ隣だった。

 入ろうか、と思って、やめた。

 今、あの中に入ったら。きっと、言ってしまう。街を出るかもしれない、と。そうしたら、この足踏みが無駄になる。まだ、決めていないふりを、もう少しだけ、していたかった。

 窓のなかで、シェナがふと顔を上げて外を見た気がした。僕は、とっさに柱の陰へ身を引いた。見つかりたくなかった。別れを、まだ口にしたくなかった。臆病なものだ、と自分でも思う。魔物の前では退かないくせに、たった四人の卓を前にして足がすくむ。守るのはできても、別れるのはいまだに下手くそだ。灰の村でいっぺんに全部を失ってから、ずっとそうだ。

 僕は、窓の明かりから目を逸らして、宿への道を、そのまま歩いた。

 答えは、もう出ているのだ。母の記録のある場所へたどり着くには、あの扉をくぐるしかない。それは、聖堂に入る前から、分かっていた。分かっていて、僕は、まだ足踏みをしている。

 置いていくものが、増えたからだ。

 名を捨てて独りで街を出たころは、失うものなど何もなかった。今は、違う。輪のすぐ外の、あの温さ。案じてくれる受付の女。そして、死んだ弟に僕を重ねて手を伸ばす兄。全部を、また後ろに置いていく。

 それでも、行くのだろう。分かっている。ただ、今夜くらいは、この足踏みを、自分に許してやりたかった。

 宿の窓から、城の三つの塔が見えた。その向こうに、王都があり、学舎があり、封印庫がある。ひとつずつ、扉が並んでいる。僕は、そのいちばん手前の扉に、ようやく手をかけようとしている。長い道だ。ここまでも、長かった。ここから先は、もっと長い。

 母さん、と、心のなかで呼んでみた。声には出さない。返事はない。ずっと、返事はない。それでも、僕はあなたの遺したものを読みに行く。今度こそ、その名前までたどり着いてみせる。

 銀の首飾りを握りしめた。冷たい板が、掌のなかで、少しずつ温くなっていった。

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