第75話「追い風」
城を出てから、三日が過ぎた。
その間、僕はできるだけ考えないようにしていた。考えると、兄の顔が浮かぶ。弟を捜し続けたと語る、あの声が耳に戻ってくる。だから、体を動かした。朝から晩まで歩き回り、夜は泥のように眠った。眠れない夜は、荒れ地で火を絞った。手を動かしていれば、頭は少しだけ静かになる。
四日目の朝、僕はギルドへ行った。
依頼の札を片端から眺める。地味な草むしりのような仕事から、値の張る討伐まで、色とりどりに貼られている。そのなかで、僕の目は赤印の一枚で止まった。半月も貼られたまま、日に灼けて端の縮れた札だ。誰も、受けていない。
街道に、ゲイルホークが出た、とあった。
ゲイルホーク。翼を広げれば、大人の背丈ほどもある大鷲だ。鋼の色をした嘴で、獲物の頭を殻ごと砕く。すでに旅人が二人、やられていた。空の高みから襲ってくる相手は、地上からは手が出しにくい。だから割に合わず、腕のある者ほど避けて通ったのだろう。
ちょうどいい、と思った。難しい仕事なら、余計なことを考えずに済む。受付の女は、札を受け取る僕を見て、何か言いかけて、やめた。
旅人が二人、と札にはあった。名は、書かれていない。ただの数だ。だが、その二人にも、帰りを待つ者がいたはずだ。ふと、灰の村がよぎった。守れなかった顔。埋めた土の冷たさ。あれから、僕はずっとだ。間に合わなかった場所のことを、いまだに忘れられずにいる。だから、こういう札に、手が伸びる。考えないための仕事だと、自分では言っている。だが、本当は、逆かもしれない。忘れられないから、こういう仕事を選んでしまう。我ながら、面倒な性分だ。
現場は、街道が林を抜ける手前の、開けた原だった。半日ほど歩いて、昼過ぎに着いた。
身を隠す木立が、そこで途切れる。だからこそ、ゲイルホークの狩り場になっている。逃げ場のない獲物を、上から一息に襲うのだ。僕は、あえて原の真ん中を歩いた。囮だ。上の気配を肌で探る。ボルツに仕込まれた、森を読む目。あれは、地面だけでなく空にも効く。
風を切る音が、頭上で鳴った。
来る。振り向くより先に、脚へ流れを通した。心臓から巡る力を、鼓動の拍子に乗せる。この一手も、ずいぶん手に馴染んできた。ここへ来て、成功は十のうち五つまで来ている。半分だ。今日は、乗った。
背へ、風を継ぐ。追い風の身体強化。
地面が、後ろへ吹き飛んだ。ゲイルホークの急降下を、半歩、横へいなす。鋼の嘴が、さっきまで僕のいた土を深々と抉った。羽ばたきの風圧が、頬を張る。近い。地に近づくこの一瞬しか、あいつに触れる隙はない。
掌の奥へ火を絞り込む。青白い、鋭い一点。狙うのは、翼のつけ根だ。
火は、届いた。絞りの一撃が、右の翼の骨を灼く。ゲイルホークが、耳をつんざく声で鳴いた。
だが、落ちない。
焦げた羽をばたつかせ、ゲイルホークはまた高く舞い上がっていく。
浅い、と舌打ちした。急降下の一瞬に、狙った一点を通すのはまだ難しい。半分は外す。当たっても、この浅さだ。
それでも、と息を整えながら思う。三年前の僕なら、掠りもしなかった。あのころ、林で似たような飛ぶ魔物を相手にして、僕は、その向きさえ捉えられなかった。倒木の狭間へじりじり追い込んで、羽を広げられなくして、やっと一匹を仕留めた。地を這うような勝ち方だった。今は、真正面から翼を灼けている。派手ではない。だが、確かに、前とは違う。
ゲイルホークが二度目の降下に入った。
今度は、さっきより高く、速い。学習している。賢い相手だ。一度で仕留められなかった代償を、こうして払わされる。上には、まだ上がいる。それを、体で思い知らされる。
跳んでかわした。追い風の身体強化。だが、着地がわずかに乱れた。膝が流れる。その隙へ、ゲイルホークが翼をひるがえして戻ってきた。二撃目だ。読めなかった。嘴が、耳の横をかすめる。風圧で、鼓膜が鳴った。あと指一本、内側だったら。頭が、割れていた。
冷たい汗が、背を伝う。落ち着け、と自分に言った。焦れば、力は逃げる。ボルツの声だ。谷の男の声でもある。息を、ひとつ、深く吐いた。膝に、また流れを通し直す。
僕は、原の端の枯れ木まで走った。追い風を、脚に継ぎ足す。枯れ木を背にすれば、あいつは、上からしか来られない。左右を、断てる。
来た。三度目だ。
嘴が、枯れ木の幹に食い込んだ。木片が飛び散る。避けきれず、肩を、翼の風切り羽が裂いた。熱い。だが、好機だった。嘴は、幹に食い込んで抜けない。この一瞬だ。
僕は、山刀を抜いた。刃に風を薄く這わせる。切れ味が増す。隠し札のひとつだ。
追い風で跳んだ。いつもの、倍の高さ。さっき灼いた翼のつけ根へ、風をまとった刃を、全体重で叩き込む。骨が、鈍く鳴った。断ち切る手応え。ゲイルホークが、地に落ちた。
とどめを刺して、僕はその場に座り込んだ。
肩で息をする。裂けた肩から、血が滴っていた。それでも掌の芯は、まだ半分残っている。三年前は、一匹倒すのに空っぽになった。循環ルートを見つけてから、燃費が目に見えて変わった。地道な成果だ。誰も、褒めてはくれない。だが、僕自身は知っている。前より遠くまで来ていることを。
ゲイルホークの骸を見下ろした。
鋼の嘴。焦げた翼。強い相手だった。それでも、僕は勝った。技を重ね、燃費を詰め、地形を使い、頭を回して。全部、独りで積み上げてきたものだ。ボルツの半歩。谷の男の絞り。荒れ地で覚えた、追い風。ひとつずつ、拾い集めてきた。
なのに、と思う。
これだけのことをやってのけて、僕はいまだに、自分が何者なのかを知らない。この火が何なのか。この体に巡る力が、どこから来たのか。母が、何を遺したのか。強くなればなるほど、足もとの空白ばかりが大きく見えてくる。手だけが、先へ進んで、肝心の頭が置いてけぼりだ。
強くなるだけなら、独りでもできた。現に、してきた。だが、この空白は、独りでは埋まらない。剣を振っても、火を絞っても、答えは出てこない。答えは、古い文字のなかにある。それを読める者の、いる場所にある。僕には、そこへ連れていってくれる誰かが要る。認めたくはなかった。ずっと、独りで充分だと、言い聞かせてきたから。
城下へ戻る道で、僕は兄の言葉を、何度も思い返していた。
宮廷にも、学び舎にも、伝手がある。お前の火は、しかるべき場所で見てもらうべきだ。
あの申し出を、僕は、はじめは毒だと思った。兄の手から差し出されたもの。家に近づく糸。近づけば、正体が割れる。あの痩せた男の影も濃くなる。危ない橋だ。それは、分かっている。
でも、と、途中で足が止まった。
学び舎。その先には、王城の封印庫がある。母の一族の、本物の記録が眠る場所。ずっと、そこを目指してきた。催しは消えた。研究院の目に留まる道は瓦礫の下だ。なら、次の道はどこにある。差し出された糸の先に、それが見えている。
毒だろうが、なんだろうが、答えのある方へ進むしかない。
逃げ続ける一生より、確かめて終わるほうがいい。城の門の前で、そう決めたはずだった。なら、この糸も、掴むしかない。兄のためではない。この空白を、自分の手で埋めるためだ。強くなるだけでは、たどり着けない場所がある。それを、今日のゲイルホークが教えてくれた気がした。
その夜、僕は久しぶりにギルドの酒場をのぞいた。
隅の卓から、聞き慣れた声がした。ダーグだった。鉄輪の四人が、卓を囲んでいる。クレイが、僕に気づいて、片手を挙げた。シェナが、来いよ、と目で言う。
少し、迷った。それから、足をそちらへ向けた。前の僕なら、まっすぐ宿へ帰っていた。今日はなぜか、そうしたくなかった。
「よう、ゲイルホーク殺し」ダーグが、椅子を引いて、僕のぶんの席を空けた。「派手にやったな。肩、そりゃ縫ったほうがいい」
「かすり傷だ」
「そういうやつが、いちばん、あとで膿む」
僕は勧められるまま腰を下ろした。酒は、頼まなかった。ただ、しばらく他人の話し声のなかに座っていた。狩りの自慢。安い恋の話。どうでもいい愚痴。そういうものが、卓の上を行き来する。輪の中に、僕はいなかった。だが、輪のすぐ外に座っていることはできた。それだけのことが、妙に悪くなかった。
誰にも、城のことは言わなかった。兄のことも。ただ、この温さを、少しだけ借りていたかった。
卓を離れて、僕は受付へ寄った。
あの女に頼みごとをした。城のカイル様へ、言伝を届けてほしい、と。あの申し出、考えておくと言ったが、もう少し詳しく聞かせてほしい、と。
女は、片眉を上げた。「あんた、城のお偉いさんと、そんな仲だったのかい」
「仲じゃない。仕事の話だ」
嘘ではなかった。半分は。
女は、それ以上訊かず「伝えとくよ」と請け合った。書きつけを、帳面に挟む。その手つきを、僕はなぜかじっと見ていた。また一本、糸があの家の方へ伸びていく。今度は、押しつけられたのではない。自分で掴んだ糸だ。
少しだけ怖かった。それから、少しだけ清々しくもあった。
どちらが本当なのかは、自分でも、まだうまく分からなかった。
ただ、ひとつだけはっきりしていることがある。僕は、もう逃げない。次にあの城へ行くときは、客としてではない。答えを取りに行く。母が何者だったのか。この火が何なのか。その全部を、自分の手で確かめに行く。この糸がどこまで続いているのかは分からない。罠かもしれない。それでも、たぐる。たぐると決めた。
肩の傷が、鈍く疼いた。明日には、また別の札を剥がすのだろう。そうやって、一歩ずつ。僕の歩幅は狭い。それでも、止まってはいない。少しずつでも、進んではいる。
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