第73話「使者」
結局、僕は街を出なかった。
夜が明けても、荷をまとめる気になれなかった。石段に座ったまま朝を迎えた。体が芯まで冷えきっていた。宿へ戻り、泥のように少し眠った。目が覚めても、足は南の門へは向かなかった。
逃げるなら、昨夜のうちだった。糸が伸びきる前に消える。それが、いちばん賢いやり方だった。だが、できなかった。理由は、自分でもよく分からない。ただ、この街に背を向けようとすると、足の裏が地面に貼りついたように動かなくなる。
昼近くになって、僕はギルドへ足を運んだ。
依頼を受けるためではない。いつもの場所へ行けば、少しは頭が冷えるだろう。そう思っただけだ。広場の片づけは、まだ半分も済んでいない。街のあちこちで、割れた瓦を運ぶ荷車とすれ違った。人々の顔には、まだ昨日の影が残っている。それでも、家々からは、鍋を火にかける煙が上がっていた。
誰かを喪った者がいる。何もかも失わずに済んだ者もいる。その両方が、同じ道を歩いていた。街は、それでも、生きていこうとしている。昨日の骸を片づけて、今日の飯を炊く。当たり前のことが、今朝は、やけに胸に沁みた。
ギルドの受付には、あの女がいた。
僕を、幾度も案じてくれた人だ。顔を見るなり、女は帳面を置いた。身を乗り出してくる。
「あんた、無事だったのかい。……いや、無事に決まってるね。あんな無茶をして」
その声には、安堵と、少しの怒りが混じっていた。僕は、うまく返せずに黙った。
「街中が、あんたの話でもちきりだよ。空から降ってきた化け物に、たった独りで飛び込んだ火の使い手がいたってね。……ばかだよ、あんたは。ほんとに、ばかだ」
女は言葉を切った。それから、声をひそめた。
「それとね。ゆうべから、あんたを捜してる人たちがいる。城の、お偉いさんのところの使いだよ。何度か、ここにも顔を出した。悪い話じゃなさそうだった。けど、あたしは、あんたの居場所は言ってないよ。……言ったほうが、よかったのかい」
僕は、首を横に振りかけて、止めた。
言わなくても、遅かれ早かれ向こうは僕を見つける。名は、もう帳面に書かれている。逃げるための糸は、昨夜、自分の手で断ち切ってしまった。それを、この人に言っても仕方がない。「気にしないでくれ」と、それだけ言った。女は、まだ何か言いたげだったが、口をつぐんだ。
その使いは、ほどなくやってきた。
昼を過ぎたころ、ギルドの扉が開いて、身なりのいい男が入ってきた。派手ではない。だが、仕立てのいい外套。きちんと締めた腰の帯。冒険者でもない。街の商人でもない。歩き方に隙がなかった。胸に、三つの塔を組んだ紋を留めている。
ひと目で、どこの家の者か分かった。アークライト家。僕が生まれ育った家の紋だ。
男は、まっすぐ僕のところへ来た。迷いのない足取りだった。受付の女に訊くまでもなく、僕を見分けたのだ。おそらく、昨日の広場で誰かが僕の顔を教えたのだろう。
「失礼。レイ殿で、相違ないか。火をお使いになる、B級の」
「……そうだ」
僕が答えると、男は頭を下げた。丁寧で、けれど有無を言わせぬ落ち着きだった。
「アークライト家より、使いに参りました。家令のハロルドと申します。昨日、広場にて多くの民をお守りいただいた火の使い手を、当主より、城へお招きしたい。ささやかながら、謝礼の席を設けたく存じます」
周りの冒険者が、ちらちらとこちらを見ている。B級の若造に、領主家から直々の使い。そんな話は、めったにあるものではない。羨望と値踏みの視線が、背中に刺さった。
僕は、すぐには答えられなかった。
アークライト家。当主。城へ。その言葉のひとつひとつが、遠い昔の匂いを連れてくる。刈られた芝の匂い。石畳を焼く夏の陽。裏庭の細い道。使用人しか通らない、あの道。僕が、レオンだったころの匂いだ。捨ててきたはずのものが、たった数語で、こんなにも鮮やかに立ちのぼる。
「……日を、改めてもらえないか」
やっと出たのは、そんな言葉だった。時間が欲しかった。息を整える時間が。
ハロルドは少しだけ思案して、頷いた。
「もとより、お怪我のこともございましょう。三日後の昼、城の東門にて、お迎えの者を立たせます」
それから、男は声をわずかに落とした。人に聞かせるつもりのない、低さだった。
「差し出がましいようですが、レイ殿。此度の席、当主のご名代として、若君が出られます。カイル様が。あなたに、じきじきに礼を述べたいと、そう仰せです」
息が、止まりかけた。
カイル。兄の名だった。
東の山の頂で、名乗らぬまま並んで戦った、あの人。僕を弟と気づかぬまま、細い火を訝りながらも覚えておくと言った、あの人。その兄が、今度は城で僕を待っている。火の使い手レイを。弟のレオンではなく。
もし。もし、向き合ったときに、気づかれたら。あの日は戦場の混乱のなかだった。だが、城の静かな席で、まっすぐ顔を合わせて。似ている、と兄はあの日言いかけた。あの言葉の続きを、今度こそ口にされたら。
「……分かった」
僕は、それだけ言った。声が、自分のものでないように聞こえた。
ハロルドは深く一礼して、来たときと同じ静けさで、去っていった。あとには、周りの視線と、鳴りやまない心臓だけが残った。
夕方、宿に戻ると、シェナが訪ねてきた。
肩の傷を診にきたのだという。約束など、していなかった。「療養所で、巻き直しそびれたからね」と、女はこともなげに言った。僕の肩の布を、手際よく解いていく。淡い光が、また、傷の縁を温めた。
「城の使いが来たんだって?」
手は止めないまま、シェナが言った。「ダーグが小耳に挟んで、気にしてたよ」
僕は、答えなかった。何と言えばいいのか、分からなかった。
「言いたくないなら、いい。詮索する気はないよ」シェナは新しい布を巻き終えて、手を離した。「ただ、あの人が言ってた。困ったことがあったら、いつでも顔を出せって。鉄輪は、しばらくこの街にいるからさ」
それだけ言って、シェナは帰っていった。
困ったら、顔を出せ。その言葉を、僕は、うまく受け取れなかった。困ったときに頼れる相手など、灰の村を出て以来、持ったことがなかった。持たないように、生きてきた。近づけば、失う。失えば、また、あの誓いを繰り返すことになる。それが、怖かった。
なのに今、その言葉が、妙に胸の底に温かく残っている。
その日は、何も手につかなかった。
宿の寝台に横たわって、天井の梁をただ眺めていた。頭のなかで、二つの声がいつまでも言い争っている。
行くな、と一方が言う。あの城は、お前の墓場になる。父がいる。兄がいる。もし正体を見抜かれたら。追い出された子が、のこのこ戻ってきたと嗤われるだけならいい。だが、そうは済むまい。あの痩せた男の帳面と城の糸が、どこかで繋がっていたら。門をくぐった瞬間、僕は二度と、表の光の下へは出られない。
でも、ともう一方が言う。
行かなければ、何ひとつ分からないままだ。母が、何者だったのか。首飾りの空白に、何が入るのか。その答えのある場所へ、僕はずっと近づこうとしてきた。それが今、向こうから手を伸ばして僕を呼んでいる。ここで背を向ければ、また振り出しだ。名も、家も、母も、遠くに置いたまま。僕はまた独りで、知らない街を歩きはじめる。
灰の村を出たあの朝と、同じように。
夜になって、僕は起き上がった。
窓の外に、城の影が見えた。三つの塔が、月明かりに黒く浮かんでいる。子供のころ、あの塔を、庭の隅から見上げていた。兄が正面の門をくぐるのを、僕はいつも、隅のほうから見送っていた。跡取りの兄には、家名があり、属性があり、行くべき場所があった。庭の隅の僕には、何もなかった。無属性の、余りものの子だった。
母のことは、ほとんど覚えていない。物心つく前に亡くなったと、そう聞かされて育った。顔も知らない。声も知らない。ただ、この首飾りだけが、母がいたという証だった。父は、母の話をしなかった。兄も、しなかった。まるきり、はじめからいなかったように。だから僕は、母を知るには、自分で探すしかない。それが、この五年の、たったひとつの道しるべだった。
懐から、銀の首飾りを取り出す。
冷たい板を、指でなぞった。ここまで来た。名を捨て、故郷を捨て、五年をかけて、この街まで。全部、この空白の答えを知るためだった。それなのに、いざ入り口が開いてみると、足がすくむ。逃げ出したあの家の門を、自分の足でくぐる。そんなことは、考えたこともなかった。
情けない、と思った。それから、少しだけ笑えた。
昔の僕なら、迷いもしなかっただろう。迷いもせずに、今夜のうちにこの街から消えていた。それができなくなったのは、たぶん、ここに置いていくのが惜しいものが、少しだけできてしまったからだ。ダーグの声が、耳に残っている。独りをやめてみろ。クレイの声も残っている。おれたちは、後ろにいた。
僕は、首飾りを握りしめた。
行こう、と思った。怖くないわけではない。むしろ、これまで相対したどんな魔物より、あの城の門は怖い。それでも、逃げるのは、もうやめだ。三日後、僕はあの門をくぐる。捨てたはずの家へ。偽りの名を掲げて、本当のことを探しに。たとえ、その先が罠だとしても。逃げ続ける一生より、確かめて終わるほうが、ずっといい。そう思えたのは、生まれて初めてかもしれなかった。
決めてしまえば、不思議と、体は軽かった。あれほど動かなかった足が、もう、あの門のほうを向いている。
窓の外の三つの塔は、答えるでもなく、ただ静かに月を背負って立っていた。
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