第72話「名を書く」
手当てを受けたのは、広場に近い空き家の一階だった。もとは織物屋だったらしい。
怪我人が多すぎた。街の治し手だけでは、とても手が回らない。無事だった建物が、そのまま仮の療養所になっていた。土間に筵が敷かれている。うめき声。血の匂い。薬草の匂い。それらが入りまじって充ちていた。僕は壁際にもたれて、シェナに肩の傷を診てもらっていた。
筵の向こうでは、足を潰された若い男が歯を食いしばっている。その隣で、母親らしい女が、泣きやまない赤子をあやしていた。祭りに来ていた人たちだ。腕を競う芸を見て、出店の菓子を買う。そういう一日になるはずだった。誰も、こんな終わり方を選んではいなかった。空から、災いが落ちてきただけだ。
「深くはないよ。でも、しばらくは無理をしないこと」
シェナの掌から、淡い光がこぼれる。裂けた肩の皮が、じわりと引き攣れて塞がっていった。痛みが鈍く遠ざかる。現代の治しは、たいしたものだ。今できたばかりの傷なら、こうしてみるみる閉じていく。古い傷や、肉の足りないところまでは届かないと聞く。それでも、たいしたものだと思った。
「ありがとう」
「礼はいいよ。あんたが火の壁を張ってくれなきゃ、ここはもっと埋まってた」
シェナはそれだけ言うと、次の怪我人のほうへ膝を進めた。自分の腕にも、まだ手当てのすんでいない切り傷が走っている。それを後回しにして、他人の傷を先に塞いでいく。誰にも言われないのに、当たり前のようにそうする。僕には、その当たり前が、まだ少し眩しかった。
外はひどい有様だった。
崩れた舞台の残骸が、片づけられないまま残っている。倒れたワイバーンの巨体には、大勢の兵と冒険者が縄をかけていた。動かそうとしているのだ。あれだけの災いを、街はもう片づけるべき大きな死骸として扱いはじめている。昨日まで祭りだった場所が、今日は骸の転がる跡地になっていた。
僕は膝を抱えて、その光景を眺めた。
催しは、なくなった。研究院の目に留まり、門への一歩を踏み出すはずだった。その道が、丸ごと消えた。けれど、それを惜しむより先に、別のものが胸に重くのしかかっていた。
見られた、という事実だ。
あの最後の火を、大勢が見た。細くて、青くて、二属性の派手な炎とはまるきり違う火を。噂は、もう歩きだしている。療養所へ運ばれてくる怪我人の口の端にも、ときおり僕の名前が混じった。あの火の兄ちゃんだ。無属性だって聞いたぞ。いや、と誰かが言い返す。二属性なんだと。
どちらも当たっていて、どちらも外れている。誰も、本当のところには届いていない。それだけが救いだった。だが噂というものは、放っておけば勝手に形を整えていく。細い火。青い火。あんなもの見たことがない。その断片がいつか一本の線に繋がったとき、僕はどうなるのだろう。
「よう」
声に振り向くと、クレイが立っていた。
若い雷使いは、いつものへらへらした笑みを浮かべていない。土間の隅の、僕の隣に、黙って腰を下ろした。しばらく、二人とも何も言わなかった。外の、縄を引く男たちの掛け声だけが聞こえている。
「あの火さ」
やがて、クレイが口を開いた。「最後の、片目を灼いたやつ。あれ、火のくせに、火の使い方じゃなかった。おれ、雷を使うだろ。だから、なんとなく分かるんだ。あれは、その辺の火使いが逆立ちしたって出せない類のやつだ」
僕は答えなかった。
「前から気になってた。あんたの火は、いつも妙に細い。ずっと、それを隠してるよな」
「……遠い流派の、癖のようなものだ」
「そういうことにしといてやる」
クレイは笑わなかった。膝に肘をついて、外を見たまま続けた。
「火のことは、もう訊かねえ。誰にだって、言いたくないことはある。おれにだって、ある。でも、ひとつだけ言わせろ」
外の松明が、ひとつ、揺れて消えた。
「あんな無茶を、独りで背負い込むのはやめとけ。あの化け物の下に飛び込んだとき、あんた、死ぬ気だっただろ。助かる算段なんて、これっぽっちもなかった。ああいうのを見ると、こっちの寿命が縮むんだよ」
その言い方に、ダーグが重なった。もっと昔の、しわがれた声が重なった。叱っているのに、突き放していない。
「……悪かった」
やっと、それだけ言えた。嘘も、言い訳も、うまく出てこない。
クレイは、ふん、と鼻を鳴らして立ち上がった。「謝ることじゃねえよ。ただ、覚えとけ。おれたちは、あんたの後ろにいた。今日も、たぶん、これからもな」
それだけ言って、怪我人のほうへ手伝いに行った。
入れ替わりに、ダーグが土間へ入ってきた。城の物見役と話をつけてきたらしい。僕の前で足を止め、しゃがみ込む。
「災難だったな。祭りが、こんなことになるとは」
「……鉄輪は、みんな無事か」
「かすり傷ばかりだ。グランの盾が、ひどく凹んだくらいでな」ダーグは短く笑った。「あいつは怒っちゃいねえ。むしろ、あの尾を受け止められたのが嬉しいんだとよ。無口な男の考えることは、よく分からん」
僕は、うまく返せなかった。あの盾は、僕の代わりに凹んだのだ。
「礼を言うのは、こっちだ」
「よせ」ダーグは片手を振った。「勘定するな。仲間ってのは、そういうもんだ。……もっとも、お前がそれを仲間と思ってるかは、知らんがな」
図星だった。僕は、まだ、そこにうまく足を置けずにいる。仲間という言葉が、こそばゆくて、そして少し怖かった。ダーグはそれ以上追わなかった。膝を叩いて立ち上がり、「傷が塞がったら、飯でも食え」とだけ言い残して出ていった。
昼を過ぎたころ、療養所に、城の兵が回ってきた。
胸に、三つの塔を組んだ紋を掲げている。見覚えのある紋だった。東の山で、負傷者を担いで下りてきた騎士たちと、同じものだ。アークライト家。かつて僕が、庭の隅から見送っていた家の、紋だった。
兵の一人が、帳面を手に、怪我人を一人ずつ回っていた。被害の数を数える。身元を書きとめる。そして、ときおり訊いていた。広場で人を守った火の使い手を知らないか、と。
「あの人だよ」
誰かが、僕を指さした。手当てを受けていた年寄りだった。「あの兄ちゃんが、火の壁で、うちの孫を逃がしてくれた」
兵が、こちらへ来た。若い、生真面目そうな顔をしていた。
「あなたが。……お名前を、うかがっても」
僕は、少しのあいだ黙っていた。
名乗れば、記録に残る。この帳面は、城へ上がる。城の奥へ。かつて僕が捨てて出てきた、あの家のところへ。レイという名と、異質な火を使う男という話が、ひとつになって、あの人たちの手もとへ届く。兄の手もとへ。
東の山でも、同じだった。あのとき隊長は、僕の名を覚えておくと言った。上に報告しておく、と。その糸が、今また、別の場所からもう一本、城の奥へ伸びようとしている。僕の意思とは関わりなく。
「……レイ」
僕は言った。「家名はない。ただのレイだ」
兵は、それを帳面に書きつけた。本当の名は、とうに捨てた。その代わりに拾った借り物の名を、僕は今、他人の手で生まれ育った家の帳面へ書き込ませている。逃げ出した場所へ、名前のほうが、僕より先に帰っていく。
「レイ殿。この礼は、いずれ、しかるべき形で」
兵は生真面目に頭を下げ、次の怪我人のところへ移っていった。僕の名の書かれた頁を、閉じて。
その音が、やけに耳に残った。
頁が一枚、閉じる。ただ、それだけのことだ。だが、僕の中では、別の扉が静かに開いた気がした。もう後戻りはできない。名は書かれた。糸は伸びた。あとは、それがどこへ届くのかを待つしかない。届いた先に、兄がいる。父が、いるのかもしれない。捨てたはずの家が、こんな形で、また僕の前に立ちはだかろうとしていた。
夜になっても、宿へ帰る気にはなれなかった。
崩れた広場を見下ろせる石段の上に、座っていた。片づけはまだ続いている。松明の灯りが、瓦礫のあいだであちこち揺れていた。
懐から、母の首飾りを取り出す。
薄い銀の板に、読めない印が刻まれている。そのうちのひとつだけ、意味の入っていない空白があった。その答えを知るために、僕はここまで来た。催しで名を上げる。学び舎の門をくぐる。いつか王城の封印庫へたどり着く。そういう道筋を、ずっと描いてきた。
その道は、今日、崩れた。
なのに、別の糸のほうが、勝手に城の奥へ伸びていく。母のためではない。僕が人を守ったという、それだけの理由で。
消えるべきなのかもしれない、と思った。
名が城に届く前に、この街を出る。糸が伸びきる前に、どこか遠くへ。そうすれば、あの痩せた男の帳面からも、城の紋からも、逃げきれる。これまでの僕なら、迷わずそうしただろう。誰も近くに置かない。足跡も残さない。独りで消える。それが、いちばん安全なやり方だった。ずっと、そうやって生きてきた。
でも、と思う。
膝を抱えた腕に、昼のクレイの声が残っていた。おれたちは、あんたの後ろにいた。シェナの淡い光。ダーグの、肩を叩いた掌。グランの、ひしゃげた盾。
独りで消えるのは、たやすい。けれど、そのたやすさの分だけ、僕はまた、灰の村のときと同じ、何も持たない場所へ戻ることになる。
首飾りを握りしめた。
答えは出なかった。留まる理由も、消える理由も、同じ重さだった。どちらも、この掌の中にある。ただ、ひとつだけ、前とは違うことがあった。
消えるのが、少しだけ、惜しくなっていた。
その気持ちの名前を、僕はまだ、うまく呼べずにいる。松明の灯りが、瓦礫の上で消えていく。ひとつ。またひとつ。それを、ただ眺めていた。答えの出ないまま、街の長い夜が、ゆっくりと、少しずつ更けていった。
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