第71話「届く」
巨大な影が、視界いっぱいに落ちてくる。
翼の巻き起こす風が、地の砂と瓦礫をいっせいに舞い上げた。息が詰まる。目を開けているのがやっとだった。それでも足は止めなかった。頭の上に、灰緑の腹がある。畳んだ鉤爪が、こちらへ伸びてくる。
狙うのは、目だ。
濁った片目が、すぐそこにあった。掌の奥で絞り込んだ火を、渾身で放つ。青白い、鋭い一点。それはまっすぐ飛んだ。
灰の村では、届かなかった。あの夜、僕の手は何にも届かず、ただ立ち尽くすしかなかった。だから今日は。
火が、片目を灼いた。
ワイバーンが、天を裂くような悲鳴を上げた。
灼かれた目を庇うように、首がねじれる。まっすぐ落ちてくるはずだった巨体が、狙いを失って傾いだ。伸ばした鉤爪が、群衆の伏せた地面をわずかに逸れてかすめる。母親の背から指二本ぶんずれた土に、爪が深々と突き刺さった。
外れた。当たり所を失った巨体は、勢いを殺しきれない。崩れた舞台の残骸へ横ざまに突っ込んだ。木材が砕ける。土煙が噴き上がる。地響きが足の裏を突き上げてきた。
だが、逃げ場を失ったのは僕のほうだった。
目の前で、巨体がのたうっている。灼かれた痛みに我を失って、鞭のような尾がめちゃくちゃに地を薙ぐ。その一振りがこちらへ来る。避けきれない。魔力はもう底だ。追い風も絞りも、あと一度出せるかどうかも怪しかった。後ろには、まだ逃げきれていない人がいる。僕がここで倒れれば、次に薙ぎ払われるのは、あの背中だ。
死ぬな。体のどこかがそう言った。
横から、鉄の壁が滑り込んだ。
グランの大盾だった。薙ぎ払われた尾が盾に激突する。鈍い衝撃音とともに、大男の足が土へめり込んだ。それでも彼は退かない。盾の陰で、僕は尻餅をついていた。
「立てるか」
ダーグの声だった。腕を掴まれ、引き起こされる。「よくやった。目を潰したのはお前だ。――だが、とどめまで独りで背負う仕事じゃねえ。周りを見ろ」
言われて、顔を上げた。
のたうつワイバーンを、いつのまにか大勢が囲んでいた。
あの氷の男が、静かに片手を上げる。地から突き上げた無数の氷の柱が、片翼を地面へ縫い留めた。翼のつけ根が凍りつく。もう羽ばたけない。空の災いが、地へ釘付けにされていく。
城壁の上では、兵たちが据え付けの大きな弩を回していた。太い矢が、うなりを上げて何本も放たれる。凍って動けぬ胴へ、それが次々に突き立った。クレイの雷が頭上で炸裂し、暴れる首の動きを鈍らせる。抜刀した冒険者たちが左右から駆け寄って、鱗の薄い脇腹へいっせいに刃を入れていった。号令が飛ぶ。誰かが水を運ぶ。倒れた者を後ろへ引く手がある。
誰も、独りではあの災いに届かなかった。
氷が翼を留める。弩が肉を裂く。雷が首を止める。幾人もの刃が急所を探る。僕の火が片目を潰したのも、そのうちのたった一つでしかない。けれど、その一つが欠けていたら、あの爪はきっと母子を捉えていた。積み重なった無数の"一つ"が、空の災いを、少しずつ地へ引きずり下ろしていく。
これが、街というものなのだと思った。城壁がある。弩がある。それを回す手順を体で覚えた兵がいる。飛び込む冒険者がいる。氷を操る才がいる。独りでは決して届かない高さへ、大勢の手が束になって届いていた。僕がずっと抱えてきた「独りで守る」は、こんなにも遠くて、こんなにも危ういやり方だったのだ。灰の村で守れなかったのは、僕が弱かったからだけではないのかもしれない。そう思うと、胸のどこかが、静かに軋んだ。
氷の男が、ふと、こちらを見た。
のたうつ巨体を挟んで、ほんの一瞬、目が合う。灼いた片目に気づいたのだろう。あの凪いだ顔が、わずかにこちらの火の跡を確かめて、それからすぐ、また獣へ向き直った。値踏みでも、称賛でもない。ただ「同じものを見ている」とでも言いたげな、短い視線だった。二日前に舞台で腕を競うはずだった相手が、今日は、肩を並べて同じ災いへ手を伸ばしている。おかしなものだと思った。あの目を、僕はきっと忘れないだろう。
ワイバーンが、最後にひときわ大きく身をよじった。
凍った翼が根元から鈍く軋む。氷の男が、留めた柱をさらに太く伸ばした。兵の放った矢が、うなじの深みへ吸い込まれる。巨体が痙攣するように跳ねた。やがて、ふつりと力が抜ける。灰緑の胴が、砕けた舞台の上へどうと沈んだ。
土煙が、ゆっくりと晴れていった。
静かだった。あれだけの喧騒が嘘のように、広場に奇妙な静けさが戻っている。誰も、すぐには声を上げない。倒れた巨体を、みなが呆然と見上げていた。やがて誰かが、ひとつ、震える息を吐いた。それが合図だったように、あちこちで、生きている者たちのすすり泣きと、ざわめきが戻ってきた。
僕は、膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。
掌が空だった。指の先まで、何ひとつ残っていない。息をするたびに、焦げた匂いと土の匂いが胸へ流れ込む。生きている。今はそれだけが確かだった。
「……あの」
小さな声に、顔を上げた。
さっき助けた母親が、子を抱いたまま、こちらを見ていた。頬に土がついている。何か言おうとして、言葉が見つからないのか、口を開けては閉じる。やがて、深く頭を下げた。腕の中の子も、つられて小さく頭を下げる。その子の、泥のついた小さな手が、ふと目の奥に焼きついた。いつか字を教えてやった、別の小さな手を思い出しかけて、僕は奥歯を噛んだ。あの手は、もう、どこにもない。だから、せめてこの手だけは。
気のきいた礼の言葉は、なかった。ただ、その仕草だけがあった。
それで、じゅうぶんだった。うまく笑えたかどうかは、自分でも分からなかったけれど。届いたのだ、と思った。あの夜には届かなかったものが、今日は、この二人のところまで届いた。それだけで、掌が空になった甲斐はあった。
立ち上がろうとして、別の視線に気づいた。
広場のあちこちから、人がこちらを見ている。憧れや感謝とは、少し違う目だった。あの若いの、無属性だって聞いたぞ。いや、二属性だと。でも、あの最後の火は。細くて、青くて、あんなもの見たことがない。ざわめきが、さざ波のように広がっていく。
しまった。もう遅い。
崩れた桟敷の陰へ目をやった。
あの痩せた男は、もういなかった。帳面に何が書き足されたのかは分からない。ただ、僕がいちばん人に見せたくないものを、あの男はたしかに見て、書いて、消えていった。谷の男の乾いた声が、耳の奥で鳴る。別の使い道のために欲しがるやつがいる。見分けは、つかねえ。
正体の一つや二つ、くれてやる。そう思って飛び込んだのは、僕だ。後悔はしていない。していないはずだった。それでも、背中を伝う冷たいものは、どうにも止まらなかった。
「動けるなら、行くぞ」
ダーグが、僕の腕を自分の肩に回した。「人の目が集まりすぎてる。英雄になりたいなら止めやしねえが……そういう顔じゃねえだろ、お前は」
見抜かれている、と思った。
グランが反対側から支える。シェナが「傷は、あとで診るからね」と小声で言った。クレイだけが少し離れて、僕の空になった掌をじっと見ている。何か言いたげに口を開き、けれど、この人だかりのなかでは、それを言わなかった。あとで訊かれるのだろう。その日が来るのが、少しだけ怖かった。
グランの盾は、尾を受けた縁が、大きくひしゃげていた。あの一撃を、僕の代わりに受けた痕だった。シェナは自分の腕の切り傷を後回しにして、道端に倒れた見知らぬ老人へ、先に手をかざしている。淡い光が、しわだらけの手を包んでいく。誰も、僕を助けたことを恩に着せなかった。当たり前のように横に立ち、当たり前のように傷を負い、当たり前のように次の誰かへ手を伸ばしていく。僕には、それがまだ、うまく飲み込めなかった。守るというのは、こういうふうにするものだったのか。独りで背負って、独りで倒れることだけが、それだと思ってきたのに。
鉄輪に囲まれて、僕は広場を離れた。
背中で、倒れたワイバーンを見上げる人々のざわめきが、まだ続いている。その中に、僕の名前と、僕の火の話が、少しずつ混じりはじめているのが、聞こえた気がした。
広場は、朝の華やぎの残骸で埋まっていた。踏み荒らされた幟が泥にまみれ、出店の屋台が横倒しになっている。楽の音のかわりに、あちこちで名を呼び合う声と、うめき声が上がっていた。担架が運ばれていく。無事だった者が、はぐれた家族を探して駆けまわる。ついさっきまで、ここは祭りだったのだ。誰かが芸に沸いて、僕も出番を待っていた。その時間は、もう、どこにもなかった。
催しは、なくなった。
舞台も桟敷も、腕を競うはずだった場所は、すっかり瓦礫になった。研究院の目に留まって、門への一歩を――そう思い描いていた明日は、今日のうちに崩れてしまった。母のことも、首飾りの空白も、それを頼りにたどるはずだった道が、丸ごと足もとから消えている。
それでも、僕は大勢に見られた。いちばん見せたくないやり方で。
これから何が来るのか、僕には分からない。ただ、ひとつだけ、たしかなことがあった。独りで抱えてきた重さのいくらかが、今日、たしかに誰かの肩へ分けられた。その温もりと引き換えに、隠していたものが人の目に触れてしまった。
その二つを、僕は焦げた掌の中で、まだ握りしめていた。どちらも、手放せないまま。倒れた災いの向こうで、崩れた城壁の一角に、じきに、あの城の紋を掲げた者たちが現れるだろう。その中に、誰の顔があるのかを、僕はまだ、知らなかった。それを見届ける前に姿を消すべきなのか。今日ばかりは、その答えさえ、うまく掴めないでいた。
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