第70話「降ってくるもの」
催しの朝は、よく晴れていた。
広場は朝から人で埋まっていた。舞台の周りの桟敷は見物人でぎっしりと膨れ、幟が高く風にはためいている。出店の煙と、楽の音と、人いきれ。祭りらしい熱気が、広場じゅうに満ちていた。
僕は出場者の控えの天幕の陰で、順番を待っていた。
落ち着かない。掌を、何度も握っては開く。今日、あの広い炎を人前で薙ぐ。狙った幅の外を、一寸も焦がさずに。三日とゆうべの夜通しで、十のうち六つまでは持っていった。六つ。まだ四つは外す。その四つが今日でなければいい、と祈るような気持ちだった。
舞台では、もう披露が始まっていた。
水使いの娘が、宙に細い水の橋を架けてみせる。桟敷から拍手が起こる。次の男が、色とりどりの炎を輪にして回す。歓声。そのどれもが達者で、そのどれもが、一枚の札を磨き抜いた芸だった。
控えの隅に、あの静かな男もいた。
昨日見た同年代の使い手だ。今日も腕を組んで舞台を眺めている。自分の番を待つ緊張の色は、露ほどもない。凪いだ水面のような顔で、ただそこにいる。あいつは何を見せるつもりなのか。僕の番は、あいつより先だった。じきに呼ばれる。
その、じきが、来なかった。
空が翳った。
雲ではない。楽の音がふつりと途切れる。人々がいっせいに空を見上げた。広場のざわめきが、奇妙な静けさに変わる。日を遮ったのは、翼だった。
城壁の向こうから、それは来た。
背に大きな翼を張った、灰緑の巨体。長い首、鉤爪、鞭のような尾。翼のひと打ちで、家々の屋根瓦が煽られて舞い上がる。僕はその姿を、絵でしか知らなかった。ワイバーン。空を統べる、街ひとつを脅かす災いだ。ふだんは深い山の奥にいて、めったに人里へは下りてこないはずのものだった。
なのに、それが、いま城下の空にいる。
誰かが悲鳴を上げた。それを合図に、広場がいっぺんに崩れた。
人が逃げ惑う。桟敷から我先にと転げ落ち、舞台の板が踏み割られ、出店がなぎ倒される。祭りの熱気は、一瞬で恐慌に変わった。押し合い、倒れ、踏まれる。ワイバーンが一声、天を裂くような咆哮を上げると、その圧だけで、幾人もが腰を抜かして座り込んだ。
催しは終わった。始まる前に、終わってしまった。
だが、本当の地獄はそのあとだった。
城壁の外から、地鳴りが近づいてくる。ワイバーンに追われた山の獣たちが、逃げ場を求めて城下へなだれ込んできたのだ。開いたままの南の門から、黒い塊が奔流となって溢れ出す。犬ほどの、走る蜥蜴の群れ。フォレストラプター。ふだんは森に潜む、素早い肉食の獣だ。上から追われて我を失い、人の街へ雪崩れてきていた。
僕はそれを見て、息が止まった。
同じだ。あの夜と、同じだった。
底で大きなものが動くと、森の奥の獣が押し出されるように手前へ流れてくる。灰の村を呑んだあの氾濫と、理屈がそっくり同じだった。獣は街を憎んでいるわけではない。ただ、もっと恐ろしいものから逃げて、行き着いた先が人の住むここだったというだけだ。逃げてきた獣が、逃げ惑う人を爪にかける。
守れなかった夜が、また来ようとしていた。
気づけば僕は、天幕の陰から飛び出していた。考えるより先に、足が動いていた。
群れの先頭が、逃げ遅れた親子に迫っていた。
母親が、幼い子を抱えて転んでいる。走る蜥蜴が三、四匹、一直線にそこへ殺到する。間に合わない。距離が遠い。ふつうなら。
脚に、心臓から巡る流れを乗せた。背へ、風を継ぐ。追い風と身体強化。荒れ地で何十回も転んで掴みかけた、あの一手だ。今日は乗った。地面が、後ろへ吹き飛んでいく。僕は矢のように、親子との間へ滑り込んだ。
立ちはだかって、掌に火を灯す。
絞ってはいけない。ここは点ではなく面だ。太い火に、下から風を撫でるように添える。炎がぶわりと横へ広がった。狙った幅。親子の前、僕の左右いっぱいに、炎の壁が薙ぐ。走る蜥蜴の先頭がそこへ突っ込んで、たまらず横へ逸れて転がった。焦げた匂いが立つ。
外れなかった。今日の一発は、狙った幅の中だけを焼いた。うしろの親子は、火の粉ひとつ浴びていない。
「――走れ!」
僕が叫ぶと、母親は子を抱え直し、よろめきながら路地へ逃げ込んだ。よし。一組。
だが群れは、あとからあとから溢れてくる。
周りでも、戦いが始まっていた。
逃げる者ばかりではない。腕に覚えのある冒険者が、抜刀して蜥蜴を斬り伏せている。城の兵が、遅ればせに槍を並べて門のほうへ駆けていく。そして――舞台のあったあたりで、あの静かな男が動いていた。
声もなく、詠唱もなく、そいつは片手を上げた。
次の瞬間、そいつを囲んでいた蜥蜴の一群が、氷漬けになっていた。地から突き上げた無数の氷の柱が、獣を貫き、あるいは足を凍らせて縫い止める。ひと息で、十匹あまり。桁が違う。あの若さで、あの精度。凍らせた獣には目もくれず、そいつは早くも次の一群へ手を向けている。
上には上、だ。
見惚れている場合ではない。僕は僕にできることをやるだけだ。広い炎で群れの奔流をせき止め、そのあいだに逃げ遅れた者を、身体強化の速さで引きずり出す。倒すのではない。守るのだ。数を減らすのは、あの氷の男や兵たちに任せればいい。僕の火は、人と獣のあいだに壁を引くために使う。
何度も、炎を薙いだ。汗が噴き出し、掌の芯がみるみる軽くなっていく。魔力が削れていくのがわかる。それでも止まれなかった。
「――独りで気張るな、莫迦が!」
聞き覚えのある怒声とともに、横合いから大きな盾が突き出された。グランだ。僕の脇をすり抜けようとした蜥蜴を、鉄の面がまとめて弾き飛ばす。その後ろからダーグが躍り出て、逸れた獣を一太刀で斬り伏せた。
「鉄輪」
「祭りを見に来てたんだよ。とんだ見世物になったがな」ダーグが吐き捨てる。「お前の火は、壁を引くのに使え。抜けてきたのは俺たちが刈る。後ろは気にするな」
クレイの雷が頭上で炸裂した。突っ込んでくる一群を痺れさせ、その足を止める。シェナが、僕の引きずり出した怪我人へ、すかさず手をかざす。淡い光。役割が、勝手に噛み合っていく。
うしろは、任せていい。
そう思えただけで、肩の力が、すっと抜けた。僕は自分の壁を引くことに、専念できる。畑で味方を焼きかけたあの怯えが、嘘のように遠のいた。守るべき人の前に立って、その背中を仲間が守ってくれる。こんなにも戦いやすいものなのか。独りで抱えてきた重さのいくらかが、他人の肩へ分けられていく。
何度も、何度も、炎を薙いだ。魔力が底に近づいても、今日はまだ立てた。
ふと、視線を感じた。
この修羅場で、場違いなほど静かな視線だった。
顔を向けると、崩れかけた桟敷の陰に、あの痩せた男が立っていた。逃げてもいない。戦ってもいない。人が転げ、獣が奔るその只中で、そいつだけが微動だにせず、じっと僕を見ていた。手には、いつかと同じ書きつけの帳面。
目が合っても、男は逃げなかった。
むしろ、ほう、とでも言いたげに、わずかに顎を引いた。値踏みが済んだ。そんな顔だった。僕が二属性の派手な炎だけの男ではないこと。追い風で人を追い越し、火の幅を指の先で御し、獣の奔流を独りでせき止めていること。そのすべてを、あの男ははじめから見ていた。見て、帳面のどこかへしまい込んでいた。
背筋が、ぞっと冷えた。
目立ってでも人を守る。そう決めて飛び出した。後悔はしていない。だが、守るために振るったこの力が、いま、いちばん見られたくない目にまっすぐ焼きついている。谷の男の声が、遠く耳の奥で鳴った。別の使い道のために欲しがるやつがいる。見分けは、つかねえ。
次に顔を上げたとき、桟敷の陰に、もう男の姿はなかった。
考えている暇は、なかった。
頭上で、ワイバーンが旋回を終えたのだ。
冒険者や兵が地上で獣を捌いているのを、あの巨大な影は、上空からしばらく見下ろしていた。獲物を選ぶように。そして、翼を畳んだ。まっすぐ、下降に移る。狙いは――逃げ遅れて広場の中央に固まった、動けない見物人の一団だった。年寄りや子供が、多くまじっている。
誰も、間に合わない。
氷の男は遠い。兵の槍は、空には届かない。あの巨体が突っ込めば、あの一団はまとめて薙ぎ払われる。
その中に、さっき助けた親子がいた。路地へ逃げたはずが、人の波に押し戻されたのだろう。母親が子を抱きすくめて、地に伏せている。一度は間に合ったのに。あそこでまた、同じ人を死なせるのか。
いやだ、と思った。それだけは、いやだ。
僕は、走りだしていた。追い風を脚に、背に、目いっぱい継いで。頭のなかは真っ白だった。ただ、間に合わせろ、とだけ、体が叫んでいた。
間に合ったとして、それでどうする。
あんな空の災いを、僕の火が止められるわけがない。それでも、足は止まらなかった。
一つだけ、ある。頂の巣で、兄と主を討ったときにやったことだ。どんな化け物にも、目はある。目を灼けば、一瞬だけ、狙いは狂う。その一瞬に、あの一団が地を這ってでも逃げられれば。細く、鋭く、いちばん見せたくない火。この土壇場で、僕はとうとう、それを抜くことにした。
走りながら、掌の奥へ流れを絞り込む。青白い、鋭い一点。狙うのは、降ってくる巨影の、濁った片目だ。
この火を大勢に見られれば、もう二属性の剣士では通らない。二度と、隠せなくなる。それでも、かまわなかった。この一発で、あの親子が助かるのなら。正体の一つや二つ、くれてやる。
灰の村では、届かなかった。だから今日は、届かせる。
降ってくる巨大な影の下へ、絞りの火を握りしめて、僕はたった独りで飛び込んでいった。
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