第69話「名を連ねる」
あれから三日、僕は荒れ地に通いつめた。
広い炎を、狙った幅の中だけで焼く。畑でグランを焦がしかけて以来、それだけを飽きるほど繰り返した。風を送りすぎれば消え、送る向きを誤れば逸れる。そのあわいを指の先に覚え込ませていく。三日みっちりやって、十のうち二つが四つになった。半分にも届かない。だが、逸れて自分の後ろへ巻き返すことは、めっきり減った。狙った枯れ葦だけが焼け、その隣は焦げずに残る。少しずつ、火が僕の言うことを聞きはじめていた。この三日で、確かに一歩前へ出た。ただ、その一歩が舞台で間に合うかどうかは、まだわからない。
暮れ方の荒れ地には、いつも僕ひとりだった。人の来ない場所を選んでいるのだから、当たり前だ。焼け焦げた葦のにおいと、自分の荒い息のほかには何もない。誰も見ていない。誰も助けてくれない。その静けさが、いつのまにか、僕には馴染みのものになっていた。強くなるための時間は、いつだって、こういう独りの中にあった。
まだ、人に向けて胸を張れる出来ではない。それでも舞台に立つと決めた以上、いつまでも荒れ地に隠れているわけにもいかなかった。
催しの登録は、今日が締め切りだった。
城下の広場は、すっかり様変わりしていた。
中央に、板を組んだ舞台がほとんど出来上がっている。周りには観覧の桟敷が段々に立ち上がり、色とりどりの幟が風にはためいていた。数日前まで野菜や布を売っていただけの広場が祭りの顔に化けている。人の出も、ふだんの倍はあった。
舞台の脇に、運営の天幕が張られていた。登録は、そこで受けつけている。
列に並んで順番を待ち、僕は帳面の前に立った。
「名は」
筆を持った小役人が、顔も上げずに訊く。
「レイ」
その名を書きつけようとした手が、途中で止まった。役人が初めて顔を上げる。
「レイ……東の山の、レイか」
「……ああ」
「そうか、あんたか」役人の目つきが、あからさまに変わった。「話は聞いてるぞ。C級で単騎、あの山の主を討ったっていう。いや、いまはB級か。……こりゃ、目玉が一人増えたな」
目玉、という言葉が胸の裏をちくりと刺した。
僕は目立ちに来たわけではない。門へ近づくために、しかたなく舞台に上がるだけだ。だが僕がどう思っていようと、名のほうは勝手に歩いて、こういう場所へ先回りしている。もう追いつけない。
役人が、催しの段取りを早口で並べた。
出場者は二日後、順に舞台へ上がって己の技を披露する。持ち時間はひとり数分。その短いあいだに、自分がどれだけの使い手かを、居並ぶ者の目に焼きつけねばならない。観覧の桟敷には、城下じゅうの見物人にまじって、学び舎や研究院の者が座る。彼らは目ぼしい才を探しに来ている。舞台で目に留まれば後日、声がかかる。弟子にと請われる者もいれば、研究院の枠へ引かれる者もいる。序列がつき、上の何人かには賞も出るという。
だが僕にとって賞などは、どうでもよかった。
欲しいのは研究院の目に留まること、ただそれだけだ。研究院の枠に入れば学び舎の内側へ足を踏み入れられる。学び舎の内側は、王城の奥にある封印の蔵へ通じる、細い細い道の入り口だった。母が何者だったのか。その答えの眠る場所へ。舞台の上のたった数分が、そこへ続く最初の一段になる。そう思えば、この浮ついた祭りの空気も、僕には笑い事ではなかった。
役人が、最後に一つ付け加えた。
「言っておくが、下手を打つなよ。目に留まるのも一瞬なら、笑いものになるのも一瞬だ。舞台で仕損じたやつぁ、二度とここじゃ名を上げられん」
「披露する技は」
「……火と、風だ」
役人が帳面に書きつける。二属性、と。それでこの町では、僕という人間の中身がひとまず片づく。無属性のからくりは、この二文字の下にきれいに隠れる。
僕が見せるのは、火に風を重ねた、広く薙ぐ炎だ。派手で、遠くからでもよく見えて、それでいて箱の中に収まっている。細い火は、懐の奥へしまったままにする。
名を連ね、技を申告した。それだけのことで、もう退く道は塞がった。
天幕を離れると、背中でひそひそと声がした。今の、東の山の。二属性の。振り返らなくても、僕の名がまた一つ小さな尾を引いたのがわかる。名を書いただけだ。まだ何も見せていない。なのに噂のほうは、もう勝手に膨らみはじめている。舞台に上がったら、いったいどうなることか。考えると、胃の底が重く沈んだ。
広場の一角に、出場者らしい者たちが幾人か集まっていた。
思い思いに腕を温めている。指先で小さな水の珠をくるくると回してみせる娘。掌の上で炎を揺らし、鳥や花に似た形へ見せている若い男。地面に霜の模様を走らせる者もいれば、風で木の葉を宙に踊らせる者もいた。見物人が足を止め、そのたびに感嘆の声を上げる。祭りの前の、浮き立った空気だった。
みな達者なものだ、と思う。
だが、と胸の内で呟いた。ひとつの属性を器用に見せてはいるが、しょせんは一枚の札だ。水の珠を回す娘は、炎は出せない。炎を捏ねる男は、水を凍らせられない。生まれ持った一色を飽きるほど磨いて、いちばん見栄えのする形に仕立てている。それはそれで見事だが、僕の目にはどこか窮屈にも映った。僕なら、あの炎に風を添えて、ひと薙ぎで景色を変えてみせる。いや、見せはしないが。心の内で、そっと札を伏せた。
その中に、ひとり、妙に静かな男がいた。
僕とそう歳の変わらない若さだ。人の輪から少し離れ、腕を組んでほかの者の芸を眺めている。何も披露していない。ただ立っているだけだ。なのに、そいつの周りだけ空気が張りつめて見えた。まとう魔力の濃さが、ほかとまるきり違う。上手い連中が芸を競う中で、そいつだけが、まだ手の内をひとつも見せていなかった。
目が合った。
向こうは僕を一瞥して、それきり興味を失ったように視線を戻した。値踏みされて、はじかれた。そんな感じだった。悪い気はしなかった。むしろ腑に落ちた。上には上がいる。谷の男や頂の兄で、いやというほど知ったことだ。舞台には、ああいうのも上がってくる。
あの若さで、あの静けさ。ただ者ではない。おおかた、どこぞの名のある家の子か、すでに学び舎に籍を置く研究生あたりだろう。生まれつき、僕が喉から手が出るほど欲しいものを、当たり前のように手にしている側の人間だ。かつての兄が、そうだったように。妬む気は、もう起きなかった。ただ、あの静けさの中身が、少しだけ気になった。あいつは二日後、いったい何を見せるのだろう。
浮かれてはいられない。舞台には、値踏みする側だけでなく、値踏みされる側にも、僕の遥か先を行く者がまざっている。
桟敷のほうへ目を向けた。
まだ人の入らない段々の席に、設営の者たちにまじって地味な長衣の男たちが、ちらほらと立っていた。書きつけを手に、舞台の位置や日当たりを確かめているふうだ。研究院の使いだろう。あの中の誰かが二日後、僕の火を値踏みしに来る。
その一人がこちらを向いた気がして、僕は思わず目を伏せた。
痩せた、見覚えのある背格好。だが人混みに紛れてすぐに見えなくなった。あの男だったのか、ただの空似か、確かめる術はない。学問のために欲しがる者と、別の使い道のために欲しがる者。どちらも同じ顔で、こういう場所に当たり前のように立っている。見分けはつかない。
背中を、そっと冷たいものが撫でていった。
広場を出て、宿への道を歩いた。
登録は独りで済ませた。舞台にも、独りで立つ。当たり前だと思っていたことが、今日はなぜか少しだけ寂しく感じられた。ダーグの言葉が、まだ耳の裏に残っている。たまには独りをやめてみろ、と。あの背中を叩いてくれた大きな手の、優しい重さも。
組めば、誰かに火を向けずに済むのかもしれない。誰かが僕の後ろを守ってくれるのかもしれない。だが、僕の火の本当のところを見せられる相手など、どこにもいない。組んだところで、いちばん肝心なものは結局ひとりで抱えるしかないのだった。仲間に嘘をつき続けて隣に立つ。それはたぶん、独りでいるより、ずっと寂しい。だから僕は、独りを選んできた。選んできたはずだった。なのに今日は、その選び方が前ほど胸に馴染まなかった。
舞台の上でも、それは同じだ。何百何千の目に見られながら、僕はたった独りで、見せていいものと隠すべきものとを、その場で選り分けて立つ。誰も助けてはくれない。助けを借りれば、隠したいものまで、こぼれてしまうから。
宿の窓から、遠くに城の白い塔が見えた。
あの塔の奥に、母のことを記した紙が眠っている。舞台に立ち、研究院の目に留まり、学びの場へ入る。その細い糸をたぐった先に、ようやく塔の門が見えてくる。まだ遠い。遠いが、二日後、その一歩めがはじまる。
枕の下から首飾りを取り出した。四角い空白は、今日も何も言わない。母さん、と胸の内で呼んでみる。声は、いつものように返ってこなかった。
顔も声も、もう思い出せない。覚えているのは、この銀の鎖の冷たさと、四角い空白のかたちだけだ。それでも、この空白が僕をここまで歩かせてきた。故郷を追われ、育ての親を喪い、本当の名を捨てて。それでも足を止めずにこられたのは、この空白の答えを知りたかったからだ。その入り口が、いますぐそこにある。二日後の舞台の、その先に。
窓を閉めて横になった。まぶたの裏に、広い炎の幅が揺れて浮かぶ。狙った枠の中だけを焼く、あの感覚。二日で、あと一つ二つ、確かなものにしておきたかった。眠りが来るまで、僕は頭のなかで何度も、その炎をそっと薙いでいた。狙った枠の、その一寸外まで焦がさずに。あともう一歩だけ、正確に。それだけを、繰り返し思い描いていた。
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