第68話「野を焼く」
声をかけてきたのは、鉄輪のほうからだった。
催しまで、あと六日。宿の飯屋で干し肉を齧っていた僕の向かいに、剣士のダーグが当たり前のような顔で腰を下ろした。
「暇か。ひとつ、付き合え」
領都の南、麦畑の広がる村に、ホーンラビットの群れが出たのだという。額に鋭い角を生やした、犬ほどもある兎の魔物だ。要は、兎。ただし、そこらの野兎とは物が違う。角は革の長靴を裂くし、追い払おうとした人を一人、腿から串刺しにしかけたらしい。一匹なら駆け出しでもどうにかなる。だが群れとなると話が違う。跳ねる。散る。逃げたと思えば、別の畝からまた飛び出してくる。角のある兎が三十も畑に放たれれば、村人の鍬では追いきれない。だからこそ、こうしてギルドに札が回ってくる。
一匹一匹はたいしたことはない。だが、数が多い。三十は下らないと村の者が言う。放っておけば、刈り入れ前の畑がまるごと食い尽くされる。C級の依頼だが、数が数だ。鉄輪の四人でも取りこぼしが出るかもしれない。手が一つ多いほうがいい。
「なぜ、俺なんだ」
「近くにいた。それに、お前は独りで東の山を下りてきた男だ。数の相手も慣れてるだろう」
断る理由を探して、僕は少し黙った。
独りが性に合う。人目のある場所で戦うのは避けたい。いつもなら、そう言って断るところだ。だが今日は、胸の奥で別の声がした。人目のある場所で、広く薙ぐあの火を一度試しておきたい。
催しの舞台は、六日後だ。それまでに、あの広域の炎が人前で使いものになるかどうか、確かめておかなければならない。荒れ地の枯れ葦を焼くのと、実戦で使うのとでは話が違う。ちょうどいい、と言えば村には悪いが、ちょうどよかった。
「わかった。行こう」
ダーグが意外そうに眉を上げた。断られると思っていたらしい。
村に着いたのは、昼過ぎだった。
畑の一角が、すでに無残に食い荒らされている。麦が根元から齧り倒され、そこらじゅうに掘り返した穴が散っていた。畑の向こうの雑木林から、下草を掻き分ける無数の足音と、低く地を這うような鳴き声が響いてくる。あの奥に群れがいる。
村人が数人、鍬や竿を手に、畑の縁に固まっていた。戦う気などない。ただ我が家の畑が心配で、じっとしていられないだけの顔だ。逃げるでも立ち向かうでもなく、遠くから見ているしかない者たち。かつて灰の村で、櫓の上から森を見ていた自分の顔を、そこに重ねてしまった。守れるものなら、守ってやりたかった。
鉄輪の四人は、慣れた手つきで持ち場を割り振った。ダーグとグランが前で受け、シェナが後ろで傷を診る。クレイが横から雷で数を削る。役割がきれいに噛み合っている。誰が何をするか、言葉を交わすまでもない。長く組んできた者だけが持つ、無駄のない呼吸だった。持たない僕には、少し眩しい光景だった。
僕には組む相手がいない。その代わりに、いくつもの手を一人で抱えている。火があり、風があり、脚があり、剣がある。四人ぶんとは言わないが、一人で二人ぶん、三人ぶんの真似事はできる。今日は、それを人前で通せるかどうかの腕試しだった。舞台の下見のようなものだ。あがってしまえば元も子もない。僕は静かに息を整えた。
「お前はどうする」ダーグが訊いた。
「畑の端に回る。林から出てきたところを、横から」
本当は、群れが固まって出てくる一瞬を狙いたかった。広い炎は、一匹を狙う技ではない。固まった数匹をまとめて薙ぐための火だ。畑の端は、林の出口がいちばんよく見える場所だった。
村人が竿を鳴らし、林へ石を投げ込む。ほどなく、下生えを割って、茶色い塊がわっとなだれ出てきた。兎の群れだ。低く跳ねながら、畑を目がけて一斉に押し寄せてくる。十数匹が、団子のように固まっていた。
いまだ、と掌に火を灯した。
最初の一発は、無様に消えた。
気が急いて、風を送りすぎたのだ。灯した火が煽られたそばからふっと掻き消える。荒れ地で何度もやった失敗を、いちばん肝心な場面でまた繰り返した。舌打ちする間に、先頭の一匹が畑へ躍り込んでくる。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。
強すぎれば消える。弱すぎれば広がらない。そのあわいを指の先で探る。もう一度、火を灯す。今度は煽らない。下から、そっと撫でるように風を継ぐ。炎がぶわりと横へ伸びた。
薙いだ。
横一線に広がった炎が、固まって跳ねてきた数匹をいっぺんに舐めた。毛が焦げ、甲高い悲鳴が上がる。火に巻かれた兎たちが、たまらず横へ逸れて転がった。一匹ずつ相手にしていては、とても捌ききれない数だった。それを、ひと薙ぎで乱す。太い火なら一匹を灼くだけだ。絞りなら、一匹を深く穿つだけ。この火は、線ではなく面で効く。数が相手のときに、こんなに頼もしい手はなかった。仕留めきってはいない。だが、群れの出足が、そこで大きく乱れた。突っ込む勢いが、一度、削がれる。
「――ほう」
横のほうで、ダーグが短く声を漏らしたのが聞こえた。悪くない手応えだった。荒れ地の枯れ葦でなく、生きた群れを相手にあの広い炎はちゃんと働いた。人前でも通じる。そう思った矢先のことだった。
だが、うまくいったのは、そこまでだった。
二発目の炎は、風の向きを見誤った。横から吹き込んだ畑の風に煽られて、広げた炎があろうことか味方のほうへ巻き返したのだ。前で受けていたグランの、大盾の陰へ。
「よけろ!」
叫んで、僕は炎を無理やり握り消した。掌の芯がぞくりと冷える。あと半歩、巻き返しが速ければ、グランの腕を焼いていた。
「――何やってやがる!」
ダーグの怒声が飛んだ。前で兎を受けながらの、腹の底からの一喝だった。グランは、何も言わなかった。だが盾の陰から向けてきた視線は、ぞっとするほど硬い。無口な男が、黙ったまま向けてくる怒りだ。どんな怒鳴り声よりも、それは重かった。すまない、の一言さえ、喉の奥で凍りついて出てこない。
背筋に、冷や汗が伝う。
これだ。荒れ地では、味方などいなかった。誰へ向けて広げようが、焼けるのは枯れ葦だけだった。だから気楽に振り回せた。だが実戦は違う。前には仲間がいて、後ろには村がある。広い炎は、狙った相手ごと味方も巻き込みかねない。面で効くということは、面で誤れば、その面の中の味方まで焼くということだ。派手で、よく効いて、そして――危うい。同じ一つの火が、頼もしくも恐ろしくもある。
残りは、火を封じた。
こうなると、確かな手のほうがいい。身体強化で脚を速め、崩れた群れの横へ回り込む。山刀で、逸れて跳ねる一匹を薙ぐ。刃には風の薄い膜を添えた。傍目には、ただ剣を振っているだけに見える。だが、いつもより深く、すっと通る。これは誰にも気取られない、静かな一枚だ。広い炎とは正反対の、懐にしまっておく手だった。人前で堂々と掲げるものと、こうして黙って使うもの。手を増やすほど、その使い分けが要るのだと、身をもって思い知る。
群れは、鉄輪の四人が危なげなく片づけた。ダーグが前を押さえ、グランが逸れた個体を盾で止める。その隙に、クレイの雷が一匹ずつ確実に落としていく。役割分担の、危なげのない仕事ぶりだった。僕の広い炎は、出足を乱す囮にはなったが、とどめは一つも刺していない。それでいい、と思うことにした。囮も、立派な一手だ。派手に目立って、そのぶんあとの始末は仲間に任せる。舞台の上でなら、それで拍手はもらえるのかもしれなかった。
畑に、焦げた匂いと土煙が残った。
村人が総出で、倒れた兎を掻き集めていく。刈り入れ前の畑は、あらかた守られた。それだけで、この村にとっては十分な報せだった。麦の穂の泥を払う年寄りが、僕に向かって何度も頭を下げた。守れた、と思った。焦がしもしたが、それより多くを、守れた。
「派手なもんだな、お前の火は」
水を飲んでいると、クレイが横に来て言った。値踏みするような、いつもの目だ。だが今日は、そこにあの引っかかったような色はなかった。
「広く薙ぐ火なんざ、初めて見た。二属性でも、あんな使い方をするやつは珍しい」
珍しい、と言われて内心ひやりとした。だが、クレイの声はあくまで感心の側にあった。細い火を訝ったときの、あの妙な粘つきはない。広く薙ぐ炎は、あいつの目にもちゃんと"火と風の二属性"として映っている。急所の絞りとは、別ものとして。
通った、と思った。
あの広い炎は、人前で掲げても箱の中に収まっている。それを、目のいいクレイの前で確かめられたのは大きい。催しの舞台で見せるなら、これでいい。細い火は、懐へしまったままでいい。
「……もっとも」クレイが、水をあおって続けた。「あの、この前の細っこい火。ありゃ結局、何だったんだ」
「気のせいだ」
「そうかい」
クレイは、それ以上は追ってこなかった。だが、忘れてはいない。あの一枚は、いつまでもこいつの記憶の隅に引っかかっている。見せ札が一枚できたところで、急所が消えたわけではないのだった。
帰り道、ダーグが不意に足を止めた。
振り返った顔から、来るときの気安さは消えている。並んで歩いていたグランも、少し離れたところで立ち止まった。
「一つ、言っておく」低く、硬い声だった。「さっきの、あの広い火だ。グランに当たりかけただろう」
「……悪かった」
「悪かったで済む話か」ダーグの目が、まっすぐ僕を射た。声は荒らげない。荒らげないぶん、かえって腹の底が知れた。「あと半歩、こいつが避けるのが遅けりゃ、盾ごと腕を焼いてた。魔物を焼くつもりの火で、味方を焼く。それは、いちばん質が悪い。敵より、まず味方が死ぬ」
グランは何も言わない。ただ、太い腕を組んで、僕を見下ろしている。責める言葉のひとつもない。それがかえって、こたえた。
「催しに出るんだろう」ダーグが続けた。「舞台には、客がいる。今日のような真似を人混みでやってみろ。守るはずのやつを、お前は自分の手で焼くことになる」
返す言葉が、なかった。まったくその通りだった。
グランの腕を焼きかけた、あの冷たい感触が、まだ手の芯に残っている。もし避けるのが間に合わなかったら。想像しかけて、僕は唇を噛んだ。守るために強くなったはずだった。その力で、あろうことか味方を焼きかけた。うつむいた足もとの土が、やけに遠くに見える。何か言おうとしても、喉の奥がふさがって、詫びの言葉すら形にならない。自分で自分が、許せなかった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
やがて、ダーグが息を吐く気配がした。
「……おい。そう思い詰めるな」
声から、さっきまでの硬さが抜けていた。顔を上げると、ダーグが、少し困ったように頭を掻いている。
「お前、これまで独りでばかり戦ってきたんだろう」
図星だった。頷くしかない。
「だと思ったよ。独りなら、隣にいる味方の位置なんざ、気にする癖がつかねえ。焼くのは魔物だけ、それで事足りてきた。今日のように前へ仲間が出てる戦は、慣れてねえんだ。……なに、叱ったのは、次から気をつけろってだけの話さ。お前がわざとやったわけじゃねえのは、見りゃわかる」
グランが、のっそりと歩み寄ってきた。何を言うでもない。その大きな手が、僕の肩をぽんと一つ叩いた。骨の軋むような握手とは違う、不器用に加減された、優しい重さだった。腕を焼かれかけた本人が、いちばん先に、僕を許していた。
鼻の奥が、つんとした。
独りでいれば、誰も焼かずに済む。その代わり、こういう手の温かさも、知らないままで来たのだった。
「……ありがとう。次は、気をつける」
「おう。組めば、追い追い覚えることだ。……お前も、たまには独りをやめてみろや」
ダーグはそれだけ言うと、また前を向いて歩きだした。
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