第66話「見せる火」
昇級してから、二日を持て余した。
催しまではまだ間がある。宿でじっとしていると、あの痩せた男の柔らかい声が耳の裏でよみがえって落ち着かない。出るのか、出ないのか。決めかねたまま、僕はギルドの掲示板の前に立っていた。
視線がまた少し集まる。B級の証を懐に入れてから、板の前での僕の立ち位置が変わった。以前は隅で地味な札を選んでいればよかった。今は、上の段に手を伸ばしても誰も止めない。止めないどころか、伸ばさないことのほうが妙に見える。
赤い印の札のひとつを指で押さえた。
領都を出て北へ半日の街道で、荷馬車が続けて呑まれている。岩肌の色をした大蛇が根城を張り、通る荷を丸ごと引きずり込むのだという。並のC級では歯が立たず、放っておけば街道そのものが死ぬ。報酬はこれまで見たどの札より重かった。
剥がしたのは金のためではない。催しに出るかどうかを決める前に、いまの自分がどこまで通用するのかを、一度きちんと測っておきたかった。B級の看板に中身がどれだけ追いついているのか。それを知らないまま舞台に上がるのは、裸で人前に立つのと変わらない。
街道に着いたのは、昼を少し回ったころだった。
現場はすぐにわかった。轍が途中でぷつりと消え、路肩の草が広く薙ぎ倒されている。乾いた血の跡がずるずると藪の奥へ続いていた。空気が饐えた匂いをしている。
僕のほかにも札を見て来た者がいた。二人組の剣士だ。距離を取って様子を窺っていたが、藪の奥で何かが太くうねる音がした途端に顔を見合わせ、そそくさと退いていった。無理もない。あの音の主は、C級が二人がかりでどうにかなる相手ではない。
退いてくれたのは、正直ありがたかった。
人の目がなくなれば、火を絞れる。身体強化も気兼ねなく脚へ流せる。仮面をかぶったまま戦うのは、剣を鞘に半分挿したまま振るうようなものだ。誰も見ていない場所でだけ、僕はやっと両手を使える。
ただ、それは同時に、助けを呼べる相手が誰もいないということでもあった。北の谷では、死にかけた僕を引き上げてくれた男がいた。峠では、逃がすべき御者がいて、守るという理由が背中を押してくれた。今日はそのどちらもいない。倒せなければ、街道が死ぬ。それだけだ。守るものが遠いぶん、恐さは剥き出しのまま僕の首筋に貼りついていた。
藪を分けて、僕は一人で奥へ入った。
下生えが濃く、足元がよく見えない。踏むたびに、古い骨のようなものが鈍く鳴る。呑まれた荷か、呑まれた誰かのなれの果てかもしれなかった。それを確かめる気にはなれなかった。奥へ進むほど、饐えた匂いが濃くなる。匂いの中心に、あれはいる。
大蛇は、思っていたより速かった。
岩の色をした胴が、下生えの陰からいきなり飛び出してくる。避けた、と思った瞬間には、返しの尾が横から来ていた。脚へ魔力を流す。心臓から巡らせた流れが腿に乗り、地を蹴る速さがひと呼吸ぶん鋭くなる。半歩ずれて、尾を受け流した。ボルツに数えきれないほど転がされて覚えた、あのいなしだ。
だが、二合目で足がもつれた。
循環のルートは、まだ十のうち四つも通ればいいほうだ。肝心なところで流れが薄くなり、右の膝が抜ける。泳いだ体の脇腹を、蛇の胴が張り倒した。息が詰まる。地面を二度跳ねて、どうにか受け身を取った。
立て、と自分に言い聞かせた。
掌に火を灯す。面で当てても、岩の鱗には通らない。崖の岩喰いのときと同じだ。太い火は、こういう相手には効かない。要るのは、細く鋭い、鱗の隙間を穿つ一点だった。
絞る。
最初の一度は逃げた。
焦っていたのだと思う。早く決めたい、早く楔を打ち込もう――そう気が急いた途端、指先へ集めかけた流れが、するりと掌のほうへ散ってしまった。青白くなりかけた火が、頼りない赤へ戻る。こういうときだ。いちばん要るときに、この火はいちばん出てくれない。蛇の鎌首が、僕の焦りを見透かすように、また高く持ち上がった。
息をひとつ吐いた。
力むと逃げる。張らずに、乗せる。谷の男の声を、頭のなかでもう一度なぞる。急ぐのをやめて、胸の奥から巡ってくる流れに、ただ指先を差し出すようにする。鼓動の拍子に合わせて、ひとつまみ。今度は、乗った。掌の火が、赤から青白い色へ痩せていく。出ない日もあるのに、今日は指の先で確かに固まってくれた。
鎌首をもたげた蛇の、鱗と鱗のあわいへ、その火を突き込んだ。
鋭い火は、面の火では届かなかった内側で弾けた。大蛇が声にならない音を上げてのたうつ。仕留めきってはいない。だが確かに、通った。あとは同じ場所を、もう一度。二度、三度と穿つうちに、岩の胴からゆっくりと力が抜けていった。
倒しきったとき、僕は膝に手をついて、しばらく動けなかった。
掌の芯が、空に近い。全部ではないが、大半を使った。脇腹が脈打つように痛む。辛くも勝った、というのが正直なところだ。B級の札をB級らしく片づけた――とは、とても言えない。這うようにして、ようやく届いた。
それでも、ひとつだけ、はっきりわかったことがある。
この大蛇を倒せたのは、面の火でも体術でもない。絞った、あの細い一点の火だ。岩の鱗を穿つ鋭さ。あれだけが、格上の相手に届く僕の切り札だった。
そして、それこそが問題だった。
催しで研究院の目に留まるには、生半可な火では足りない。よっぽどのものを見せろと、誰もが言う。僕によっぽどのものがあるとすれば、それはこの絞りの火をおいてほかにない。けれど――クレイが引っかかったのも、まさにこの火だった。細くして深く刺す、火のくせに火の使い方じゃない、と。あの痩せた男が探ろうとしたのも、たぶん同じものだ。
見せなければ、埋もれる。見せれば、近づかれる。
僕の切り札と、僕の急所は、同じ一つの火だった。
妙な話だと思う。強くなればなるほど、その強さが僕を裸にしていく。弱いうちは、誰も見向きもしなかった。無属性の役立たず。それでよかったのだと、今になって思うわけではない。ただ、力というのは、手に入れたそばから代償を求めてくる。灰の村で無力だった僕は、力さえあればと歯を食いしばった。力を手にした僕は、その力を隠すことに、また歯を食いしばっている。
どこまで行っても、楽にはならないらしい。
大蛇の牙を一本、証に折り取って街道を戻った。
帰り道のあいだ、ずっとそのことを考えていた。答えは出ない。派手な火を見せて、当たり障りのないところで拍手をもらう手もある。だがそれでは、研究院の目は上滑りするだけだろう。声はかからない。門は開かない。かといって切り札を晒せば、僕を"箱に入らないもの"として見る目が、確実に増える。
どちらを取っても、片方の手を縛られる。
夕日が街道の砂を赤く染めるのを、僕は目を細めて眺めた。舞台に立つ自分を思い描こうとしても、どうしてもうまく像を結ばない。広場の人いきれ、値踏みする長衣の男たち、そのどこかにまざっているだろうクレイの目――そういうものばかりが先に浮かんで、肝心の"何を見せるか"だけが、いつも霞の向こうに逃げていく。
それでも、領都の白い壁が見えてきたころ、僕はようやくひとつだけ決めた。出場そのものは、する。ここまで来て、舞台に上がらずに引き返す道は、もうない。何を見せるかは、当日までに決めればいい。決めきれないまま、それでも足だけは前へ出す。この数年、僕はずっとそうやって歩いてきた気がした。
ギルドへ寄って、大蛇の牙を証に差し出した。
受付の女が、牙とその太さを見比べて、短く口笛を鳴らした。
「北の街道の赤印を、もう剥がしてきたのかい。一人で」
「ほかに受ける奴もいなかった」
「そりゃそうだ。あんな札、パーティ組んでも二の足を踏む」女は達成の判を捺しながら、上目でこちらを見た。「言った通りになったね。B級になった途端、あんたは断らなくなった。……いや、断れなくなった、かね」
どちらだろう、と思った。自分でも、その境目がよくわからない。
牙を運ぶ台車の音を聞きつけて、板の前の何人かが、また振り向いた。北の街道を独りで、という声が、早くも低くさざめきはじめている。名は、僕が休んでいるあいだも勝手に働き続ける。今日ひとつ札を剥がしたことが、明日には尾ひれをつけて、どこか知らない酒場の隅で語られるのだろう。そう思うと、勝ったばかりだというのに、少し疲れた。
宿へ戻ると、日はとうに暮れていた。
濡らした布で脇腹を拭くと、蛇の胴に張られたところが、赤黒く腫れて広がっていた。骨は折れていない。折れていないだけましだ、と思いながら、傷の縁をそっと押してみる。鈍い痛みが返ってくる。回復の淡い光が使えたなら、こんな夜も少しは楽なのだろう。だが、それはまだ僕の手にない技だった。鉄輪のシェナが手をかざすだけで傷を塞ぐのを、いつか盗めればいい。いまはただ、布を当てて息を殺すよりほかにない。
寝台に腰を下ろし、首飾りを取り出した。四角い空白は、今日も何も答えない。母がこの窪みに何を嵌めていたのか、それを知るための道が、九日後の舞台に細くつながっている。近づいたはずなのに、指の先はまだ何にも触れていない。
牙とB級の証を並べて置いた。どちらも、今日の僕が確かに勝ち取ったものだ。手のひらには、まだ火を絞った感覚が残っている。出せた日の、あの固い手応え。
明日はきっと、出せないかもしれない。
それでも構わない、と思うことにした。出せる日と出せない日を行き来しながら、それでも少しずつ、出せる日のほうが増えていく。今日はたしかに、格上を一匹、この火で仕留めた。舞台の上でそれができるかどうかは、まだわからない。わからないまま、僕は灯りを消して、目を閉じた。
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