第65話「値踏み」
昇級の話は、思っていたより早く来た。
東の山を下りて三日目の朝、ギルドの受付に呼ばれた。いつもの女が帳面の上に一枚の札を置く。細い銀で縁取られた、見慣れない色の証だった。
「B級だ。上が判を押した」
あっけないほど短い言葉だった。C級に上がったときは崖トロルを鉄輪と組んで討って、それでも半日は待たされた覚えがある。今度は待つ間もなかった。東の山の主を討った冒険者を――名目のうえではそういうことになっている――ギルドがいつまでも下の格に置いておくわけにはいかないのだろう。
「よかったな、とは言わないよ」女は帳面を閉じながら言った。「B級になりゃ赤印の札に手が届く。届くってのは、断りにくくなるってことだ。今までのように地味な札ばかり選んで、隅で息をひそめてるわけにはいかなくなる」
その通りだと思った。
僕は銀の縁を指でなぞった。ずっしりとした重みは、昨日受け取った金貨の重みとよく似ている。手に余る、という点でも。
正直に言えば、この格は僕の中身に釣り合っていない。循環のルートを覚えてから掌の火は前より楽に灯るようになった。それでも十のうち、まだ三つか四つだ。絞りの鋭い火は、出せる日と出せない日の差が自分でもよくわからない。身体強化はいまだに膝が抜けるし、加減を誤れば関節が軋む。B級というのは、そういう半端な中身の上にずいぶん立派な看板を掛けたようなものだった。
看板だけが、僕の足より先を歩いていく。
証を懐にしまうとき、板のほうへ目をやった。依頼の札で埋まった大きな掲示板だ。その上のほう、これまで一度も手の届かなかった段に、赤い印を捺した札が並んでいる。人が続けて食われた谷。街道を塞いだ大蛇。名のある魔物の名が、値の張る報酬とともに書かれていた。昨日までは、ただ眺めるだけの札だった。今日からは、剥がせてしまう。剥がせるということは、誰かに「なぜ剥がさない」と問われうるということでもある。
板の前にいた数人の冒険者が、僕のほうをちらと見た。値踏みするような目もあれば、あからさまに面白くなさそうな目もある。ほんの数日前まで、この板の隅で地味な札を選んでいた若造が、いつのまにか赤印に手の届く段へ上がっている。愉快に思う者のほうが、少ないに決まっていた。
視線の重さには、まだ慣れない。慣れてはいけない気もした。
ギルドを出たところで、名を呼ばれた。遠慮のない、聞き覚えのある声だ。
鉄輪だった。剣士のダーグを先頭に、大盾のグラン、治し手のシェナ、それに雷使いのクレイ。催しを当て込んで領都まで流れてきたと、山へ入る前に聞いていた。
「聞いたぞ、東の山だろう」ダーグが片手を挙げた。厳つい顔が、めずらしく笑っている。「たいしたもんだ。俺たちが尻込みした札を、独りで片づけやがって」
「運がよかっただけだ」
「運で東の山は下りてこられねえよ」
グランが無言で、大きな掌を差し出してきた。握り返すと、骨が軋むほどの力だった。この大男は口の代わりに手で物を言う。以前、僕の半歩のいなしを見て顎を引いたときと、同じ目をしていた。
「二属性で、しかも東の山の主か」シェナが白い外套の袖を揺らして笑う。「言ったでしょ。宮廷が放っておかないって。催しで声がかからなかったら、逆にどうかしてる」
「催しってのは、そんなに大層なものなのか」
僕が訊くと、ダーグが肩をすくめた。
「広場に舞台を組んで、腕自慢が順に技を見せる。それだけっちゃそれだけだ。だが客のなかに、学び舎や研究院の連中がまざってる。目に留まったやつには、あとで声がかかる。うちへ来い、学ばないか、ってな。俺たちのような叩き上げには縁のない話さ。あんたには、あるかもしれんが」
叩き上げには縁がない、とダーグは言った。僕もまた、生まれつき縁のなかった側の人間だ。それでも研究院という言葉が、僕の胸のいちばん奥を、静かに引っかいていく。あの言葉の先に、たどり着きたい戸がある。
その名声こそが、いま僕の首をゆっくり絞めているのだと、この人たちは知らない。
黙って笑い返していると、いちばん後ろのクレイが、僕の腰のあたりをじっと見ていた。若い雷使いの目には、仲間内の気安さがない。値踏みするような、ひやりとした光がある。
「なあ」クレイが口を開いた。「あんたのあの火、まだ細いのか」
喉の奥が、ひとつ詰まった。
崖トロルのときも、裾で再会したときも、この男は同じことを訊いた。ほかの誰も気に留めない、絞った火の鋭さ。それがこいつの目にだけは、いつも引っかかる。
「細いも太いもない」僕は肩をすくめた。「火は火だろう」
「俺の雷は、絞っても細くはならねえ。太いまま、勝手に暴れる。あんたのは逆だ。細くして、そのぶん深く刺す。……ありゃ火のくせに、火の使い方じゃねえ」
「買いかぶりだ」
クレイは、それ以上は追ってこなかった。ただ、腑に落ちない、という顔のまま、鼻を鳴らして仲間のほうへ戻っていく。ダーグが「催しで会おうぜ」と手を振り、四人は人混みへ紛れていった。
背中を見送りながら、僕は詰めていた息を吐いた。
村の連中には通る仮面が、こういう男の前ではひとひら剥がれかける。谷の男が言っていた通りだった。目のいい場所には、目のいいやつがいる。そして催しは、その目のいいやつばかりが集まる場所なのだった。
その男に気づいたのは、鉄輪と別れてしばらく歩いたあとだ。
地味な長衣を着た、痩せた男だった。研究院の使いだと言えば、そう見えなくもない。ただ、さっきから僕の三、四歩うしろを、同じ歩幅で付いてくる。人混みに紛れているようで、紛れきれていない。追う気配を隠す気が、もともと薄いのかもしれなかった。
角をひとつ折れて、露店の陰で足を止めた。男も止まった。
「レイ殿、で間違いないかな」
声は柔らかかった。物腰も丁寧で、身なりも小ざっぱりしている。悪意のようなものは、どこにも見当たらない。だからこそ、据わりが悪かった。
「そうだが」
「東の山の話は聞いています。いや、たいしたものだ」男は目を細めた。「差し支えなければ、少し伺いたい。あなたのその火――ずいぶん変わった質だと、もっぱらの評判でしてね。どこで習われたものです」
問いそのものは、珍しくもない。城下へ入ってから、幾度も似たことを訊かれた。だが、この男の訊き方には、ほかの誰とも違う手つきがあった。答えの一片から、その奥にあるものを探り当てようとする、慣れた手つきだ。
「遠い山向こうの流派だ」僕はいつもの嘘を並べた。「師はもう死んだ。名を言っても、あんたは知らないだろう」
「なるほど。死んだ、と」
男は、その答えを鵜呑みにする顔をしなかった。かといって、疑う顔もしない。ただ、書きつけるように、僕の言葉を胸のどこかへしまい込んだ。嘘をつかれ慣れている者の仕草だった。嘘だと承知のうえで、それでも構わない。むしろ嘘のつき方そのものを見ている。そういう目つきだ。
僕は落書き帳の紐を握った。掌の下で、心臓がひとつ大きく鳴る。ここで火を出すわけにはいかない。身体強化も見せられない。この男の前でできることは、ただ何者でもない冒険者の顔で立っていることだけだった。それがどれほど難しいかを、いま初めて知った。
「催しには、出られるので」
「まだ決めていない」
「出られるといい」男は薄く笑った。「あなたのような才は、正しく扱われるべきだ。……正しく、というのが、なかなか難しいのですがね」
それだけ言うと、男は名も名乗らず、来た道を戻っていった。研究院の使いなら、たいてい名くらいは名乗る。名乗らない使いも、いるにはいるのだろう。学問のために珍しい才を欲しがる者と、別の使い道のために欲しがる者。あの男がどちらだったのか、僕には見分けがつかなかった。
見分けはつかねえ。どっちも同じ顔で近づいてくる。
井戸端の、あの低い声を思い出した。冗談だと思って聞いていたわけではない。それでも、こうしてすぐ隣に立たれてみると、背筋の冷え方はまったく違っていた。
その晩は、なかなか寝つけなかった。
宿の寝台で、また首飾りを取り出した。銀の鎖に、四角い空白。母が何者だったのかを知る手がかりは、いまも空白のまま僕の手の中にある。B級の証と並べて置くと、片方はやけに立派で、片方はやけに小さく見えた。名ばかりが大きくなって、肝心のものは、この空白のように埋まらないままだ。
催しまで、あと九日。
この町へ来た本当の理由は、この空白だったはずだ。母が守る民の血を引くのか。首飾りの四角い窪みに、もともと何が嵌まっていたのか。その答えは父の城の奥、鍵のかかった蔵の、さらに奥にある。オズはそう言った。あそこへ入るには学びの場を通るしかなく、学びの場へ通じる細い戸のひとつが、九日後の催しだ。
目立てば、研究院の目に留まるかもしれない。留まれば、その戸に手が掛かるかもしれない。それが、この町まで来た理由の続きだった。けれど今日、同じ目立ちが、名も名乗らぬ痩せた男を引き寄せもした。
欲しがる者が二種類いて、どちらも同じ顔で来る。ならば、こちらにできることは多くない。順番を間違えないこと。名のために動くのではなく、動いた結果として名がついてくる、その順番を守ること。あの男に言われたことを、もう一度、胸の中で並べ直した。
銀の証を落書き帳のあいだに挟み、首飾りは枕の下へ入れた。
強くなった。格も付いた。それでも、埋めたいものは何ひとつ埋まっていない。看板ばかりが立派になって、その裏で本当の僕は、痩せた男に嘘を並べて息をひそめている。眠りが訪れるまでのあいだ、僕はそのことばかりを、飽きもせず数えていた。
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