第64話「余熱」
山を下りるあいだ、兄は一度も僕を振り返らなかった。
当たり前だ。あの人には部下の亡骸を運ぶという、もっと重い仕事がある。担架代わりの外套に乗せられた鎧が、いくつも列をなして僕らの前を下っていく。誰も口をきかない。勝ったはずなのに、勝ち鬨のひとつも上がらなかった。討伐というのは、こんなにも静かなものらしい。そういえば灰の村を守り抜いたあの夜も、やはりこんなふうに静かだった。生き残った者ほど、笑えないものなのだ。
僕は隊列のいちばん後ろについて黙って歩いた。
兄の背中はずっと先にある。銀の縁取りの鎧が木漏れ日を鈍く弾いていた。その気になれば身体強化でいますぐ追いつける距離だ。だが追いついてどうする。肩を並べて何を話す。話せることなど何ひとつなかった。だから僕はちょうどいい距離を保ったまま、ただその背中を追って歩いた。
昔からこうだった。僕の居場所はいつだって、あの背中のうんと後ろ。庭の隅から門を見送っていたころと、結局は何ひとつ変わっていない。
道の途中で、若い騎士が一人、僕のそばへ寄ってきた。頂で、獣の薙ぎ払いから引きずり出してやった男だ。まだ少年の面影を残している。あのとき助けてもらった礼を、と言って、彼は深く頭を下げた。僕は、いいと短く返した。礼を言われるほどのことはしていない。ただ、目の前で人が死ぬのが、我慢ならなかっただけだ。若い騎士は、それでも何度も振り返りながら、隊列へ戻っていった。生きて帰れる者がいる。それが、いまはただ、ありがたかった。
麓の集落まで下りたところで隊列と別れた。
騎士たちは城へ、僕は領都のギルドへ。それだけのあっさりした別れだ。例の隊長が去り際にもう一度、僕の肩を叩いた。厳つい顔に、初めてわずかな笑みらしきものが浮かんでいる。
「レイ。お前のことは、上に報告しておく」
上、というのはたぶん兄のことだろう。あるいは、その先にいる父のことか。僕の名があの城の奥へ運ばれていく。かつて僕を"いないもの"として追い出した、まさにあの城へ。妙な巡り合わせだった。捨てられた本当の名の代わりに、間に合わせでこしらえた偽名のほうが、こうして堂々と門をくぐっていく。
「……ありがとう」
礼を言うのが精いっぱいだった。それ以上何か言えば、声が震えそうだったからだ。
領都のギルドへ、青縁の札を返しに行った。
受付にはあの女がいた。僕の顔を見た瞬間、帳面を取り落としそうになる。
「あんた……生きてたのかい」
「一応な」
「一応って、あんた」女はそれから、僕の全身をじろじろと眺めた。あちこち破れて血と泥にまみれた格好を、上から下まで。何か言いたそうに口を開きかけ、結局は大きなため息をひとつ、ついただけだった。「……無事なら、いい。よく帰ってきたね」
思いのほか優しい声だった。この町にも、僕の帰りを気にかけてくれる人がいたらしい。それだけで、山の疲れがいくらか軽くなった気がした。
東の山の主が討たれたという報せは、僕より先に街へ届いていた。討伐隊の誰かが先に下りて伝えたのだろう。青縁の札を、C級の冒険者が一人で討伐隊に加わって片づけた。街ではそういう話になっている。事実とそう食い違ってはいない。ただ一つ違うのは、僕が何を使って戦ったのか、その中身だ。そして中身こそが、誰にも明かせないものだった。
女は、達成の証をあらためると、桁の違う報酬を数えて寄越した。金貨で、ずっしりと重い。これまで受けてきた渋い依頼の、何十枚ぶんにあたる額だ。これだけあれば、しばらく宿にも仕事にも困らない。だが不思議と、嬉しさは湧いてこなかった。この金は、あの山で死んだ騎士たちの命の、釣り合わない代わりのようにも思えたからだ。
女は帳面に、僕の等級のことを書き足しながら、ひとりごとのように言った。
「これで、あんたも昇級だろうね。……ま、生きてるうちに上がれて、よかったよ」
厄介なことに、その冒険者の名は、もう街中に広まりはじめていた。
名が跳ねた。
ギルドを出て宿へ帰るまでの短いあいだに、何度も見知らぬ顔に呼び止められた。あんたが例の。東の山を鎮めたっていう。二属性の。握手を求める者もいれば、割のいい仕事を持ちかける者もいる。遠くからこそこそと指をさすだけの者もいた。ほんの数日前まで、真面目に働くだけの名もないC級だったのに。世間の目というのは、こうもあっけなく変わるものらしい。
皮肉なものだ、とつくづく思う。
僕は目立ちたくて山に登ったわけじゃない。催しのためでも、名のためでもなかった。ただ裾で人が食われるのを見ていられなかった。本当に、それだけのことだ。なのに守ろうとした結果が、いちばん避けたかった「目立つ」という形になって、そっくり僕へ返ってくる。誰かを助けるたびに、自分の首を少しずつ絞めているのかもしれなかった。
守れば目立つ。目立てば囲われる。
あの人の言葉が、また耳の奥で鳴った。谷の男はこうなることを、はじめから知っていたのだろう。知っていて、それでも「自分で登れ」と言った。あれは突き放したのでも、けしかけたのでもない。ただ逃げるなと、そう言いたかっただけなのだと、いまなら少しわかる。
城下は、催しの支度で浮き足立っていた。
広場には板を組んだ舞台がしつらえられ、通りには色とりどりの幟が立ちはじめている。あちこちの露店が、遠くから来た客を当て込んで、店を広げていた。腕自慢の冒険者らしい一団が、大きな声で笑いながら、大通りを肩で風を切って歩いていく。研究院の使いだという、地味な長衣の男たちの姿も、ちらほら見えた。あの中の誰かが、半月後、僕の技を値踏みしに来る。そう思うと、腹の底が、こそばゆいような、落ち着かない心地になった。
目立ちたくなかったはずが、僕はいつのまにか、この舞台のいちばん目立つところへ、押し出されようとしている。東の山を鎮めた冒険者として。皮肉は、どこまでも僕についてまわるらしかった。
その男は、宿の裏の井戸端に、当たり前のような顔で座っていた。
「登ったな」
僕が近づいても、男は水を汲む手を止めなかった。城下では別に動くと言っておいて、こういうときにかぎって現れる。もう驚きもしない。
「あんたの言うとおりにしたら、こうなった」僕は破れた上着を指でつまんでみせた。「名が、勝手に走りだしてる」
「だろうな」
「止められない」
「止まらねえよ。一度走りだした名前は」男は汲んだ水を、ごくりと飲んだ。「だが覚えとけ。お前が今日名を上げたのは、名のためじゃねえ。人を助けたからだ。その順番だけは間違えるな。取り違えたやつから、化けの皮が剥がれていく」
人を助けたから、名が上がった。名のために人を助けたのではない。
その順番、と胸のなかで繰り返した。言われてみれば、当たり前のことだ。だがこの当たり前が、これから先の僕を、きっと何度も支えてくれる。目立つのを恐れて足を止めるより、順番さえ違えなければ、僕はまっすぐ立っていられるはずだった。
「催しが、もうすぐだな」男がぽつりと言った。
「……ああ」
「せいぜい、見に来る側の目に留まってこい。お前は、そのために登ったわけじゃねえがな」
「……見に来る側ってのは」僕は訊いた。「研究院の連中のことか」
男は、すぐには答えなかった。井戸の縁に肘をつき、暗い水面をのぞき込むように、しばらく黙っていた。
「そういうのも、いる」やがて、低く言った。「そうでないのも、まざってる。珍しい才を、学問のために欲しがるやつと、別の使い道のために欲しがるやつと。……見分けはつかねえ。どっちも、同じ顔で近づいてくるからな」
別の使い道。その言い方に、背筋が、うっすら冷えた。だが、それ以上は訊けなかった。訊いても、この人は答えない。そういう顔をしていた。
それだけ言うと、男はふらりと立ち上がり、路地の暗がりへ消えていった。引き止めはしない。ただ、この人がいつか本当にいなくなる日のことを、なぜだかふと考えた。根拠のない予感だった。できれば、当たってほしくなかった。
その晩、宿の寝台で首飾りを取り出した。
銀の鎖に、四角い空白。これを確かめるために、僕はこの町へ来たはずだった。母が何者だったのかを知りたい。それが何よりの理由だったはずだ。なのに山にいたこの数日、僕は一度も母のことを考えなかった。頭を占めていたのは裾のこと、源のこと。そして、兄のことばかりだ。
兄は、僕を憎んでいなかったのかもしれない。
あの疲れきった横顔を思い出すたびに、僕がずっと握りしめてきた一本の芯がぐらつく。憎まれて追い出された。そう思い込むことを、僕は五年間、自分の柱にしてきた。恨む相手がいるあいだは、まだ立っていられたからだ。だがもし、あれが憎しみなどではなかったとしたら。あの人も追い出したことを、どこかで悔いていたのだとしたら。僕はこの五年、いったい何を支えに歩いてきたのだろう。
わからない。確かめる術は、いまの僕にはない。
わかっているのは、その答えもまた、あの城の奥にあるということだけだ。母のことも、兄の本当の気持ちも、消えた僕の名も。何もかもが、あの白い壁の内側に眠っている。だとすれば、僕の行き先は結局ひとつだった。逃げ出してきた場所へ、もう一度、自分の足で帰るしかない。
催しまで、あと十日ほど。
首飾りを握って目を閉じた。山の余熱が、まだ体の芯にくすぶっている。討った獣の断末魔。兄の炎の、あの赤い色。そして「似ている気がした」という、あの低い声。それらが頭のなかで、代わる代わるよみがえった。眠りはなかなか訪れてこない。それでも、心のどこかは不思議と静かだった。少なくとも裾の煙は、もう絶えない。今日のところは、それで十分だと思うことにした。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや★★★★★評価・感想をいただけると、今後の執筆の励みになります!




