第63話「頂」
手負いの騎士たちと、最後の斜面を登りきった。
息が上がっていた。身体強化で登り続けた脚は、もう鉛のようだ。掌の芯も、道中の魔物で、半分より減っている。頂に着く前から、こんな有様だった。だが、頂のほうから、獣の咆哮と剣戟の音が響いてくる。休んでいる暇はなかった。
最後の岩を越えて、僕は頂を見た。
頂はすり鉢のような窪地になっていた。
黒い岩が幾重にも重なり、その底に大きな洞が口を開けている。巣だ。そこから獣の湧く気配が絶え間なく漂ってくる。空には黒雲が低く垂れて、風が生ぐさかった。
その窪地で、まだ戦いが続いていた。
黒い獣が一頭。あの日に男が薙いだ主と同じ大きさだ。牛の三倍はある。背の瘤は岩のようで、四本の牙は僕の背丈ほどもあった。それを十人あまりの騎士が囲んで槍を突き立てている。だが獣はびくともしない。むしろ囲みのほうが、じりじりと押されていた。
その中心に、一人の男が立っていた。
揃いの外套ではない。銀の縁取りをした上等な鎧だ。片手を掲げ、そこから炎を放っている。太く赤い炎だった。それが獣の横腹を焼くたびに、獣が身をよじる。指揮を執りながら、自らも前に立って戦う男。
兄だった。
顔を見た瞬間にわかった。五年で背は伸び、頬はこけ、目の下には濃い隈がある。それでも、あれは兄だ。カイル・アークライト。庭の隅から、正面の門をくぐる背中を見送った、あの兄。それがいま目の前で炎を放っている。
心臓が痛いほど鳴った。
「新手か!」
兄の声が飛んだ。加勢に現れた僕らに気づいたのだ。僕は、とっさに顔を伏せた。
「討伐隊の生き残りと、冒険者が一人!」隣の隊長が答える。
「冒険者だと? こんな頂まで……まあいい。手が要る。使えるなら使え!」
兄の目が一瞬、僕の上を滑った。伏せた顔の、そのわずかな隙。何かを探るような間があった。だがそれだけだった。兄はすぐに獣へ向き直る。当然だ。追い出した無属性の弟が、こんな山の頂に冒険者として立っているなど、思うはずもない。
わかっていたことだ。それでも胸の奥が鈍く軋んだ。
この人は僕を弟だと知らない。知らないまま、僕を使える駒として数えた。それでいい。それでいいのだと自分に言い聞かせて、僕は顔を伏せたまま獣のほうへ走り出した。
走りながら、倒れかけた一人の騎士を、身体強化で横から支えた。獣の薙ぎ払いから、その体を引きずり出す。若い騎士だった。呆然とした顔で、僕を見上げる。礼を言う暇もなく、僕はもう次の位置へ動いていた。考えるより先に、体が動く。誰かが倒れそうなら、支える。それだけのことなら、この山に登る前から、ずっとやってきた。
獣は手がつけられなかった。
兄の炎が横腹を焼いても、厚い皮が焦げるだけで致命にはほど遠い。騎士の槍は瘤にはじかれる。目を狙おうにも頭が高すぎて、誰の刃も届かない。時間の問題だった。このままでは囲みが崩れ、一人ずつ食われていく。灰の村と同じ末路だ。あの夜の光景が、否応なく重なった。二度は御免だと、あれほど思ったばかりだった。
僕は獣を観察した。
考えろ。力で敵わないなら頭を使え。ボルツの声が耳の奥で言う。あの黒い獣を、男はどう仕留めた。流して、体勢を崩し、開いた急所へ一撃を通した。同じことは僕にはできない。流しの精度が桁違いに足りない。
だが、と思う。
あの獣は目を灼かれると、痛みで必ず棒立ちになる。加勢に入ったときの若い個体もそうだった。皮は硬くても、目玉だけは柔らかい。そこなら、いまの僕の火でも通る。
「隊長!」僕は駆け寄って怒鳴った。「僕があれの目を潰す。一瞬だけ動きが止まる。そこへ全員の槍を、喉の一点に集めてくれ。ばらばらに突いても、あの皮は破れない」
隊長が僕を見た。それから迷わずうなずいた。さっきの岩場で、僕のやり方を一度見ている。それが、こんなところで効いた。
「聞いたな! 喉だ! 冒険者が合図したら、全員で喉を突けッ!」
問題は、その目までどう火を届かせるかだった。
頭が高い。地上から放っても、火は横腹止まりだ。ならば高さを、こちらが作るしかない。僕は窪地の縁にせり出した黒い岩を見上げた。あそこからなら、獣の頭を上から狙える。飛び降りる高さとしては、正気の沙汰ではない。だが、ほかに手はなかった。
脚に力を乗せた。
胸から腿へ、あの流れを通す。身体強化で岩をひと息に駆け上がった。息が切れる。掌の芯も、もう半分は空だ。だがここで出し惜しめば、誰かが死ぬ。全部出し切る。それでいい。それが、灰の村で何もできなかった僕の、せめてもの落とし前だった。
岩の上から獣を見下ろす。
兄が炎で獣の注意を引きつけていた。獣が兄のほうへ牙を向ける。その横っ面が、いま真下にあった。僕は胸の脈に、深く気を沈めた。焦るな。乗せろ。掌に、青白い火が鋭く立つ。今日いちばんの、渾身の一発だ。
跳んだ。
落下の勢いをそっくり乗せて、僕はその火を獣の目玉へまっすぐ突き入れた。
獣の絶叫が頂を揺らした。
両目を潰された獣が、棒立ちになる。狙いどおりだ。ほんの数瞬。この一瞬のために、全部を懸けた。
「いまだ! 喉を突けえ!」
落下しながら、力のかぎり叫んだ。地に転がり、肩を岩に打つ。痛みは後回しだ。顔を上げると、騎士たちが一斉に、喉の一点へ槍を叩き込んでいた。ばらばらではない。一点に集めて。厚い皮も、同じ一点を十本の槍が抉れば破れる。狙いは、当たった。
そこへ、兄が飛び込んだ。
「退けッ!」
騎士を割って前へ出た兄が、槍のこじ開けた喉の傷口へ、両手で渾身の炎を叩き込む。太い炎が獣の内側で爆ぜた。血と肉の焦げる臭いが、頂に満ちる。
獣が最後に一度、大きく身を反らして――そして、崩れ落ちた。
地響きが、ゆっくりと収まっていく。
誰も、しばらく動けなかった。生き残った者たちが、その場にへたり込む。倒れた獣の巨体から、黒い血が岩を伝って流れていた。もう、二度と立ち上がらない。それだけの死に方だった。
僕も岩に背を預けて、荒い息を吐いた。
掌は空だった。指の先まで何も残っていない。全部使い切った。それでも勝った。今度こそ、本当に勝った。灰の村では届かなかった源を、僕はこの手で止めた。一人ではない。皆で、だ。それでも確かに、止めたのだ。
巣の洞からは、もうあの湧く気配は消えていた。主を失えば群れは散る。裾に落ちる火の粉も、これで止まる。あの炭焼き集落も、痩せた村人たちも、これでもう、じりじり食われずに済む。
目の奥が、じわりと熱くなった。疲れのせいだ。そう思うことにした。少なくとも、この山の上では、誰も、僕の涙の理由を訊いたりはしない。
「おい、冒険者」
声に、僕は顔を上げた。
兄がこちらへ歩いてくる。まずい。とっさにまた顔を伏せようとした。だが遅かった。兄はもう、すぐ目の前に立っていた。近くで見る顔は、思っていたよりずっと疲れて、老けていた。まだ二十歳そこそこのはずだ。それが、幾つも歳を重ねたような顔をしている。この山で、いったい何を背負ってきたのか。
「よくやった。お前がいなければ全滅していた」兄はそう言って、僕の顔をまじまじと見た。「……お前、その火。妙に細いな。見たことのない使い方だ。どこで習った」
「……遠くの流派だ」僕はいつもの嘘を口にした。「もう、師は死んだ」
兄は、しばらく僕の顔を見ていた。何かを思い出そうとするような目だった。眉が、わずかに寄る。
「妙だな」兄が低く言った。「お前、どこかで……」
僕の心臓が跳ねた。
気づかれる。全身が、かっと熱くなった。逃げ出したい。同時に、心のどこかが、叫んでいた。気づいてくれ、と。ここにいる、と。追い出した弟が、生きて、ここに立っていると。二つの声が、胸の中で、めちゃくちゃに絡み合った。
だが、兄は、首を振った。
「……いや。すまん。誰かに似ている気がしただけだ」
その誰かが誰なのかは、言わなかった。言えなかったのかもしれない。兄は疲れた顔で、小さく笑った。それから、僕の肩を、ぽん、と叩いた。昔、ボルツがそうしたように。骨ばった、けれど、温かい手だった。
「山の下の連中を、守りたかっただけなんだ」兄が、ふいに、そんなことを漏らした。僕にというより、独り言のように。「俺の力じゃ、こんなものだ。何人も死なせた。……それでも、退くわけにはいかなかった」
その言葉が、僕の胸を、深くえぐった。
守りたかった。裾の村を。同じだ。僕がこの山に登った理由と、何ひとつ、変わらない。この人は、驕った跡取りなんかじゃなかった。ただ不器用に、自分の民を守ろうとして、力の及ばないところで、血を吐いていた。僕が、ずっと遠くから、勝手に描いていた兄の像が、音を立てて崩れていく。
「助かった。この礼は、必ずする。名は」
「……レイ」
「レイ、か」兄はうなずいた。「俺はカイルだ。覚えておく」
僕は、うなずき返すこともできなかった。ただ黙って、その顔を見ていた。
覚えておく、と兄は言った。だが、いちばん覚えていてほしい名を、僕は口にできない。それはもう、この世から消えた名だった。ほかならぬ兄自身の手で、辺境へ追い出した名だ。――いや。本当に、そうだったのか。この、疲れきった顔の男が、本当に、僕を憎んで追い出したのか。わからなくなった。何もかも、確かめようがないまま、僕はまた、嘘の名の下に、自分を隠した。
黒い雲の切れ間から、薄い日が頂へ差し込んできた。その光の中で、兄は部下たちのほうへ戻っていく。僕は、その背中を、また、見送るだけだった。昔と同じように。ただ今度は、庭の隅からではなく、同じ戦場の、同じ地面の上から。
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