第62話「加勢」
山を登りはじめて半日が過ぎた。
昨夜はほとんど眠れなかった。青縁の札を懐に入れてから、腹の底が、ずっと落ち着かない。それでも、夜が明けると同時に僕は宿を出た。迷う時間が長いほど、足がすくむとわかっていたからだ。
奥へ入るほど木は捻じれ、岩は黒く濡れて、空気が重くなった。魔物とは何度かすれ違った。山犬より大きい、猪の変種のようなものが多い。そのたびに、僕は道を外れてやり過ごすか、絞りの火で手早く仕留めるかした。人目はない。ここでなら隠さずに済む。
ただ、どれも骨が折れた。
裾の猪とは格が違う。皮が厚く、火を一度や二度入れたくらいでは倒れない。一度は、岩陰から飛び出してきた一頭に危うく腿を裂かれかけた。とっさに身体強化で跳んでかわし、着地の勢いで絞りの火を喉へねじ込む。それでようやく倒せた。膝が笑っていた。倒したあと、しばらく岩に手をついて、息を整えなければならなかった。
循環のやり方でいくら燃費を抑えても、一体片づけるごとに、掌の芯が確実に削れていく。奥の主どころか、その手前の雑魚で、僕はもう息を切らしていた。数を相手にすれば、いずれ枯れる。それは目に見えていた。だから、無駄な戦いは避け、できるだけ静かに上をめざした。
上には上だと、あらためて思い知る。
男が片手で薙いだ、あの黒い獣。あれが、この山のいちばん奥にいる。いまの僕が正面から当たれば、瞬きの間に潰されるだろう。だから、あれとは戦わない。あくまで、下りてくる雑魚を途中で間引く。それが、いまの僕にできる精いっぱいだった。
異変に気づいたのは昼を過ぎたころだった。
風に乗って、金属のぶつかる音と人の怒号が届いた。剣戟だ。この山の奥で、戦っている者がいる。
騎士だとすぐにわかった。
領主家の連中が討伐に入っている。あの三つ塔の紋の。近づけば、僕が誰かを、いつか気づかれるかもしれない。頭のどこかで、そう警告する声がした。引き返せ。かかわるな。あの人だって、そう言うはずだ。俺の山じゃない、と。
だが、怒号には、切迫した響きがあった。
誰かが、押されている。それを聞いて素通りできるほど、僕は器用じゃなかった。裾で人が食われるのを見ていられなくて、ここまで登ってきたのだ。いまさら耳をふさげるわけがない。
僕は音のする方へ走った。
開けた岩場に出て、僕は足を止めた。
黒い獣がいた。あの主ほどではない。だが、牛より大きく、背の瘤も牙も、あの獣と同じ形をしていた。子か、若い個体か。それが一頭、岩場で暴れている。
その周りに、騎士が七、八人。
揃いの外套は泥と血にまみれ、隊列はとうに崩れていた。地面には動かない鎧がいくつも転がっている。生き残りが、盾を寄せて、かろうじて獣の前に壁を作っていた。だが、それも長くはもたない。獣がひと薙ぎするたびに、盾ごと騎士が吹き飛ぶ。
助けに入れば、僕の火を見られる。
一瞬、迷った。ここで火を使えば、二属性の冒険者がまた一人、領主家の目に留まる。その話が、いつか兄の耳にも届くかもしれない。目立てば、囲われる。あの人の警告も、セラの言葉も、みんな同じことを言っていた。かかわるな。引き返せ。頭のいちばん冷たい部分が、そう囁く。
だが、迷っているあいだにも、また一人、騎士が地に叩きつけられた。まだ若い声が悲鳴を上げる。
――もう、いい。
見られて困る力なら、はじめから、こんな山に登ってこなければよかった。目立つのが怖いなら、裾の親子も見捨てればよかった。だが、僕はそうしなかった。そうできない性分だと、もう、とっくにわかっている。僕は覚悟を決めて、岩場へ飛び込んだ。
まず、脚に力を乗せた。
身体強化だ。これは、見られても、ただ足の速い剣士にしか映らない。獣の死角へ一息で回り込む。そのまま山刀で後ろ脚の腱を狙って斬りつけた。手応えはある。だが、皮が厚い。腱までは届かない。刃が途中で止まる。硬い。濡れた丸太を斬りつけたような、鈍い手応えだった。
獣が振り向く。その巨体が、僕を捉えた。
まずい、と思ったときには、もう薙ぎ払いが来ていた。身体強化で、後ろへ跳ぶ。間に合わない。牙の先が、肩の鎧当てを削って、僕を岩へ叩きつけた。息が詰まる。背中を鈍い痛みが走った。あれをまともに食らっていれば、いまごろ、あの動かない鎧の仲間入りだった。
ここからは、隠している場合ではなかった。僕は岩に手をついて立ち上がり、胸の脈に気を沈める。焦るな。乗せろ。掌に、青白い火を絞り出す。細く、鋭く。それを、獣の目へ叩き込んだ。
獣が咆哮を上げ、のけぞる。
「いまだ! 脚を狙え!」
僕は、崩れかけた騎士たちへ怒鳴った。指示なんて、柄じゃない。だが、この隙を逃せば次はない。生き残った騎士たちが、はっと我に返って、獣の脚へ槍を集めた。目を灼かれた獣が、めちゃくちゃに暴れる。その脚を、槍が、剣が、次々と抉った。
それでも、獣はしぶとかった。
目を灼かれても、瘤の厚い皮が、槍の穂先を何度もはじく。手負いになったぶん、暴れ方はかえって激しくなった。一人の騎士が、薙ぎ払いをかわしきれずに宙を舞う。僕は身体強化で駆け寄り、落ちてくるその体を、辛うじて受け止めた。重い。鎧ごとだ。腕の骨が、みしりと鳴る。それでも、地面に叩きつけられるよりは、ましだった。
「下がって体勢を立て直せ!」
また、口が勝手に動いた。騎士たちを一度退かせ、僕は残った力をかき集めた。掌の芯は、もう底が見えている。あと何発、絞りが出せるか。二発。よくて三発。それで決めなければ、こちらが先に倒れる。
僕は脚に力を乗せ、獣の顔の正面へ、自分から飛び込んだ。
囮だ。獣がこちらへ牙を向けた、その一瞬。開いた口の奥へ、渾身の絞りの火を、まっすぐ通した。喉の内側で、火が爆ぜる。獣が初めて、痛みらしい悲鳴を上げた。
最後は、総がかりだった。
僕が絞りの火で獣の顔を焼き、その隙に騎士たちが脚の腱を断つ。膝を折った獣の喉へ、隊長らしき大柄な騎士が、渾身の一突きを入れた。獣が断末魔を上げ、ようやく岩場に沈んだ。
辺りが静まり返る。
誰もがその場に膝をついた。僕も岩に手をついて、荒い息を吐いた。掌の芯は、とうに空っぽだった。全部を使い切った。もう、火の一つも出せそうにない。
勝った。だが、勝ったという実感より、疲労のほうがずっと大きかった。
「……助かった」
隊長の騎士が兜を脱いで、僕を見た。四十がらみの、厳つい顔の男だ。汗と血に汚れている。
「見ない顔だな。冒険者か」
「ああ」僕は、まだ息を整えながら答えた。「札を受けて、登ってきた」
「あの札を、一人で。……無茶をする」隊長は、倒れた獣を見て、それから、動かない鎧のほうへ目をやった。何人か、助からなかったらしい。厳つい顔が、苦しげに歪んだ。
生き残った騎士たちが、動かない仲間のそばへ寄って、兜を取る。名を呼ぶ声がした。返事は、なかった。若い騎士が、膝をついたまま、肩を震わせている。まだ、僕とそう変わらない歳に見えた。
その光景を僕は黙って見ていた。かける言葉なんて、あるはずもなかった。灰の村のあと、僕がボルツたちの上にかけてやれた言葉が、何一つなかったように。
「名は」
しばらくして、隊長が僕のほうへ向き直った。
「……レイだ」
偽りの名が、この山で、また一つ、口をついて出た。三つ塔の紋を掲げた男に、その名を告げる。妙な気分だった。この人たちは、僕が誰なのか知らない。知るはずもない。
「レイ、か。覚えておく」隊長は、うなずいた。「この礼は、いずれ。……我らはまだ、上へ行かねばならん。カイルさまが、頂の巣で、待っておられる」
その名に、僕の息が、一瞬止まった。
顔には、出さなかったと思う。ただ、心臓が、ひとつ大きく鳴った。
兄は頂にいる。この山の、いちばん上で。あの黒い獣の、大元の巣で。部下をこれだけ死なせてなお、退かずに。あの、正面の門をくぐっていった背中が、いまはそんな場所で戦っている。庭の隅から見送った、あのころの兄とは、もう、まるきり違う人になっているのかもしれない。
「あんたたちも上へ」
「ああ。手負いだがな」隊長は、生き残りを見回した。数えるほどしか、立っていない。「頂の巣を潰さねば、この山は鎮まらん。何人死のうと、行くしかない」
行くしかない。その言葉が、裾の炭焼きの声と重なった。上から湧くのを止めなければ。誰かが、それをやらなければ。
僕は、まだ痺れの残る腕を、握って開いた。
「……僕も、上へ行く」
言ってから、しまった、と思った。だが、口に出した言葉は、もう戻せなかった。
源は、頂にある。そして、頂には兄がいる。僕はとうとう、いちばん近づきたくない場所へ、自分の足で向かうと口にしてしまった。
隊長が少し、意外そうな顔をした。それから、何も言わずにうなずいた。冒険者が一人、報酬に釣り合わない危険へ首を突っ込む。物好きめ、とでも思ったのかもしれない。事情を話すわけにもいかない。話したところで、信じてもらえるはずもなかった。
僕は、手負いの騎士たちに肩を貸しながら、彼らとともに上をめざした。
登るごとに、空気が、ぴりぴりと痺れていく。頂の巣が近い。あの黒い獣が、何頭も湧いてくる場所。騎士を何人も呑み込んだ場所。そして、兄がいる場所。
いちばん近づきたくなかった相手に、僕は、いちばん助けの要る形で近づいていく。名乗れもしないまま。顔を見られるわけにもいかないまま。それでも、足は止まらなかった。止める理由を探した。けれど、疲れた頭は、ひとつも拾ってこなかった。
黒い雲が、頂のほうで、低く渦を巻いていた。
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